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小松和彦「呪いと日本人」の感想と要約は?

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呪いの日本史

呪いを紐解く概説書ですが、ここでは歴史の中における呪いに関する記述をまとめてみました。

次の本も面白いです。

奈良時代の呪い

奈良時代は呪詛が盛りとばかりに満ちあふれ、宮廷内の政治も呪詛によって導かれていました。

「続日本紀」に奈良時代の呪いの実態が浮き彫りにされています。

誰それが呪詛を行ったかどで処罰されたとか、呪詛禁止の勅令が発布されたなどこ記載が度々登場します。

長屋王の呪詛事件では、長屋王が左道と言われる邪術を密かに学んで国家反逆を企てているという理由で自殺に追い込まれています。

事件直後には呪詛の禁止と呪詛者の弾圧を宣言します。

勅命で禁止したということは、天皇をはじめとして貴族や役人、民衆の間で、呪いを恐れる信仰が広範に流布していたことを物語っています。

橘奈良麻呂は、「日本霊異記」によると、邪術使いだと言われていました。

八世紀半ばの奈良では、貴族や僧侶・神官たちが国家転覆を謀って、天皇や権力者を呪詛したとする政争が多く発生します。

天武天皇の孫で呪詛事件では自殺を余儀なくされた長屋王の従兄弟である塩焼王は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に連座したかどで処刑されます。

この五年後、妻の不破内親王(聖武天皇皇女)が天皇に対する不敬や悪行をなしたかどで京を追放されます。その中身が天皇に対する呪詛でした。称徳天皇(孝謙天皇)への厭魅したというのです。

事件の翌年、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位します。

不破内親王と姉妹の井上内親王が皇后になります。その結果、再調査が行われ、丹比宿禰乙女の誣告とわかり、不破内親王の罪が解かれます。

ところが、井上内親王が子である皇太子・池戸親王と共謀して光仁天皇を呪ったという理由で皇后を廃されてしまいます。

藤原百川の陰謀であったとされます。

このあと池戸親王も皇太子を廃されてしまいます。井上内親王が新たな呪詛を行ったというのです。光仁天皇の姉・難波内親王の死が、井上内親王の呪詛によるものとされたのです。

光仁天皇のもう一人の妻・高野新笠と皇子・山部親王(桓武天皇)一族との間には、皇位継承を巡る対立があり、呪詛が行われてもおかしくない状況がありました。

井上内親王と池戸親王は二年後に世を去ります。

桓武天皇の恐れ

桓武天皇となった山部親王は母子の霊をひどく恐れ、怨霊の祟りを鎮めることに大変な神経を使います。

桓武天皇が平城京を捨て、長岡京へ都を移そうとした理由の一つが、二人の怨霊の祟りから逃れるためでした。

しかし実弟・早良親王の祟りがあり、平安京へ都を移します。

平安時代の呪い

御霊(怨霊)の時代といえる平安時代が始まります。

奈良時代には中国伝来の知識や技術を駆使した呪いのスペシャリストを呪禁師(じゅごんし)と呼んでいました。

呪法は2つあり、人形を用いる「厭魅(えんみ)」と、動物の霊魂を操る「蠱毒(こどく)」です。

呪禁師の呪いの技法は宮中から民間へ流布していきます。平城京跡からは木製の呪い人形が発掘されています。

奈良時代は生者の呪いにおびえることで血塗られた歴史をつづり、平安時代には、加えて死者の怨念が生者に祟りをもたらすことで恨みを晴らす怨霊の信仰が大流行します。

怨霊が跋扈する平安時代の幕を開けたのは桓武天皇でした。

義理の母である井上内親王や、その子・池戸親王の怨霊を恐れて平城京を捨てて長岡京へ遷都を計画します。

しかし実弟・早良親王の怨霊を恐れて平安京へ遷都しました。

早良親王は藤原種継の暗殺事件に関与したという理由で皇太子を廃され、淡路に流されますが、その途中でハンガーストライキで餓死します。

数年経たずして桓武天皇の夫人や母や皇后が死に、皇太子も病に伏せ、早良親王の祟りと考えられるようになります。

桓武天皇は淡路に使者を派遣して早良親王の霊に謝しました。

こうした怨霊を恐れる心性は、新しい祭祀の形式になり、「御霊信仰」を生み出します。

共同幻想に支配された人たちは、祟りを鎮め、防ぐための発見・発明したのが、新たな神を創り出すことでした。

怨霊信仰

九世紀の中ごろになると、怨霊思想は第三者を巻き込んだ形で発生し始めます。強力な怨霊が出現して、無差別に祟りをなすようになります。

こうして連綿と続く「御霊信仰」が生み出されました。

疫病や天変地異が起きると、政争に敗れて非業の死を遂げた者の祟りと考えました。一種の支配者批判であり、まともな政治を求める批判と願望が示されていました。

政治批判の形になると、支配者は怨霊と災厄の因果関係を否定しようとしました。

しかし結局は国家の支配者が、国家として祟り鎮めをすることになります。それが「御霊会」です。

最初の御霊会は貞観5(863)年に京都の神泉苑で行われ、早良親王など六人の霊が「六所御霊」として祀られました。

日本史上最大級の怨霊

平安時代を下ると日本史上最大級の怨霊が登場します。菅原道真の怨霊です。

延喜3(903)年に没すると、天災や宮廷での災厄が起き、菅原道真の祟りと考えられるようになります。

ついに道真の怨霊を天満自在天神として祀りあげることになります。北野天満宮の始まりです。

菅原道真の御霊は、鬼の姿をした雷神もしくはそのボスとして描かれてきました。

日本の「大魔王」崇徳上皇の怨霊は、明治天皇をも恐れさせていました。

讃岐に流された崇徳上皇は三年ほど経った頃、呪詛の誓文を記して海底に沈めました。その後、遠流9年にして世を去ります。

崇徳上皇崩御ののち、京では異変や事件が続出します。それらが崇徳上皇の怨霊の祟りとされました。

朝廷は怨霊を祀りましたが、祟りが止むことはありませんでした。

死者の呪いである祟りは、呪われる側に対する批判や反省を強いる呪いと言えます。生者の呪いは、呪われる側を失脚させたり、災いを及ぼしたりする目的を持ちます。

呪詛の系統は大きく3つ

呪詛の歴史を見ると、大きく3つにまとめることができます。

  • 奈良時代の呪禁道
  • 平安時代の陰陽道
  • 古代末期から中世の密教と修験道

古事記や日本書紀の神々の時代においては言葉に霊が宿っているという言霊信仰が盛んでした。

こうした土着の呪詛法を駆逐したのが呪禁道でした。

呪禁師が文献に出てくるのは敏達天皇6(577)年のことで、百済王が僧尼や仏師や寺大工らとともに呪禁師を朝廷に献上しました。

呪禁道は呪術的医療の知識・技術の体系ですが、くわしいことが伝わっていません。

呪禁師は奈良時代の末期に忽然と記録から消えます。

呪禁道と同じ頃に日本に伝えられたのが陰陽道でした。奈良時代も末期になると日本に定着するものの、古い知識になりつつありました。それを蘇らせたのが吉備真備でした。

装いを新たにした陰陽道は呪禁道を吸収しつつ、天皇や貴族の呪的ボディガードになります。

陰陽道が平安初期の社会不安を背景に勢力を伸ばしていた頃、大陸から密教がもたらされます。

陰陽道が天皇や貴族の私的領域で勢力を伸ばしたのに対し、密教は国家の守護、護国の修法としての性格を強調しました。

朝鮮・新羅の敵国降伏、海賊の調伏、平将門の調伏などです。

密教は平安時代に大流行した怨霊を祀る御霊信仰の影の立役者ともいえます。

本書について

呪いと日本人
小松和彦

目次

プロローグ―なぜ、いま「呪い」なのか
1章 蘇える「呪い」の世界
2章 なぜ、人は「呪い」を恐れるのか
3章 どのように呪うのか
4章 「呪い」を祓う方法
エピローグ―「人を呪わば穴ふたつ」