覚書/感想/コメント
北方太平記(北方南北朝)の一絵巻です。南北朝時代の楠木正成を描いています。
一連の北方太平記の中で、関連性の強いのは赤松円心を描いた「悪党の裔」です。合わせて読むのがよいと思いますが、一連の作品群をまとめて読むのをおススメします。
一連の北方太平記の中で、軸になる小説がどれかというと難しいですが、本書を中心にして捉えてみるとすっきりするかもしれません。
ただし、おススメなのは、最後に本書を読むことです。
北方太平記に一貫するのは、武士と悪党or異形の者との対決という点に置かれていることです。従来のように、朝廷と幕府の対決という構図ではありません。
武士と悪党or異形の者との対決といった場合、武士の代表が足利高氏(尊氏)であり、悪党or異形の者の代表が楠木正成なのです。
そして、一連の作品群は、悪党or異形の者にスポットを当てる格好になっています。それは主人公であったり、重要な脇役であったりしています。
悪党or異形の者にスポットを当てることに主題を置いている感じがあり、それ故なのでしょうか、足利尊氏と後醍醐天皇を主人公とした小説はありません。
悪党or異形の者の果たした役割というのは、戦後の歴史研究のたまものです。
小説の書かれ始めた時期を考えると、最新の学説を取り入れた格好になっており、そういう意味において一連の北方太平記は新しい小説群といえます。
南北朝時代を舞台にした北方太平記の中で一貫しているのは、後醍醐天皇の評価の低さです。この小説の中でもたびたび言及しています。
一方で、評価の極めて高いのが大塔宮護良親王です。
大塔宮護良親王は、鎌倉に幽閉され、北条家の残党の蜂起によって鎌倉が襲われた際、足利尊氏の弟・直義によって殺されました。
殺された地には鎌倉宮が建っています。明治期になってから建立されたので歴史のある神社ではありません。鎌倉宮の別名が大塔宮です。
ですが、この鎌倉宮には護良親王が幽閉された洞窟や殺された場所は残されているものの、護良親王の墓所は別あります。
鎌倉宮から10分ほど歩いた山の中に、手摺のない急な長い階段を上った先に、ひっそりとあるのです。訪ねた時は、宮内庁管轄の墓所ですが、朽ちる寸前の状態でした。
小説の中で、護良親王が死んだ知らせを受けた後、楠木正成が河内に寺社の建立に没頭する姿が描かれています。
楠木正成がその命のすべてをささげた護良親王の墓がこのような扱いを受けているのを知ったら、あの世で悲しんでいるにちがいありません。
北方太平記(北方南北朝)
内容/あらすじ/ネタバレ
矢野荘には寺田方念という悪党がいた。今でも時々人の口にものぼる。楠木正成が見た、最初の悪党だった。
正成が二十二才の時、父に言われ、ひとりで諸国を旅した。その父は、正成が知る限り領地を治めようなどとはしていなかった。
ただ、奈良から京への街道に力をもっていたし、大和川の水運にも関係していた。暮らし向きは豊かだった。
寺田方念の戦を見たとき、世が乱れる気配があると思った。武士が絶対の力をもっているというわけではない。
今、播磨では赤松円心という男が悪党をまとめている。正成が屋敷で世話をしている猿楽の一座などから全国各地の情勢を集めていた。
正成は伊賀の金王盛俊という悪党を気にしていた。寺田方念に似ているのだ。あらゆるものを集め、一つの場所には留まらせず、そうしながら全体を動かし、東大寺領の荘園のかなりの部分を横領していた。新しいやり方だった。
正成の眼は物流に向かっている。春になると瀬戸内海の海運が動き始め、大和川の物流が飛躍的に伸びた。
年明けから正成は瀬戸内海の海賊衆を回り、説得に当たっていた。海運の利に目を向けさせたのだ。
新帝の後醍醐はすでに三十を超えていた。帝の親政になったからといって、六波羅が支配者である京の情勢は変わらなかったが、いままでにないおかしな緊張感が漂っていた。
関東でもおかしなことが起きているという。勅命をもった山伏が方々を訪ね歩いているという。
京は魔物だ。制することはできても、守り抜くことは難しい。
護良親王が三千院梶井門跡に入室して五カ月がたっていた。ゆくゆくは天台座主になり比叡山に入る。
京で騒ぎが起きたのは、昨年の九月だ。父なる帝は関与を否定し、鎌倉へ弁明の使者を立てていた。だが、護良は帝こそが騒ぎの中心にあることを知っていた。
己が比叡山に入ったら、比叡山を動かせるのか…。倒幕のためには見逃せない力だった。
武士の支配を覆そうとした帝の考えは間違っていないが、そのために頼ったのが武士であるのは、権力を武士から武士に移すだけにならないのか。
護良はまず大和を旅しようと決めていた。
父・正遠が死んだ。
正成はそのまま力を引き継いだ。父は大きな力を河内で作り上げていた。直属の兵が五百、誓氏を差し出す土豪が三十を超えていた。四、五千の兵は動員できる。
摂津で小さないざこざが起きた。弟の正季が出て行って捕まった。正成が直接出かけていった。相手は赤松円心だ。
鎌倉では得宗の北条高時が出家し、混乱が起きているというが、それに乗じて幕府を倒そうとする武士は現れていなかった。
護良は自分のそばに則祐をつけた。赤松円心の三男だ。
正成は久しぶりに調練に立ち会っていた。我らの闘い方は武士とは違う。およそ武士が考えつかないやり方で闘うのだ。
そうした時期に正成を大塔宮護良が訪ねてきた。帝を戴ければ、悪党も一つにまとまれるかもしれない。
北畠具行は暇があると正成と喋りたがった。それは大塔宮が悪党の力を認めたのだった。各地の武士と同じように、利用できる存在として考え始めている。
正成も具行を通して朝廷が利用できる存在かどうか見ようとしていた。
大鳥荘での蜂起が三月目に入った。はじめは、どうということのない蜂起だったが、六波羅が音をあげた。手ごたえは十分だった。やがて蜂起する豪族が増えていった。
だが、六波羅は一筋縄ではいかない。河内さえ乱れなければ和泉の蜂起は終息するとみている。そして赤松円心は和泉の混乱の背後に正成がいることを読んでいる。正成の背に冷たい汗が流れた。
和泉で重要なのは退き時だった。
六波羅を三度までも討ち払った。そして蜂起はそれを機に急速に収束していった。正成の力は悪党とは呼べないほど河内では大きかった。伊賀、大和、和泉、摂津、瀬戸内海…。だが、正成は河内の豪族であり続け、正体を見せることはない。
大塔宮は正成と対面していた。
正成は大塔宮に、悪党は生き延びることを求めていると言った。そのためには北条にも与すると。だが、幕府に逆らっているのは、幕府が生き延びさせてくれないからだとも言った。
悪党に節操などないとも言った。それは朝廷が無意味だと言っているのと同じだった。
悪党に得をすると思わせれば、兵は集まってくる。銭の道だ。それを貰いたい。水運、陸運、海運、それぞれがそこで動くことを認めればいいのだと言った。それであれば力を売ろう。
正成は怯え続けていた。大塔宮に大変なことを言った。だが、これは熟考の末だった。
帝が動いた。同時に護良も動いた。
初陣は負けなかった。帝ははじめから南都付近のどこかに拠ることになっていた。帝は笠置山におり、緒戦で六波羅を破った護良と合流した。だが、笠置に集まっている兵はわずかだ。
幕府が関東から大軍を発した。足利高氏や新田義貞といった源氏の流れをくむ武士もいる。
正成は帝に拝謁を許された。幕府はまだ強い。戦は長いものになる。正成は帝に、「正成の命があると聞かれるかぎり、決して負けてはおりませぬ」と告げた。
正成は金剛山麓の小高い丘に簡便的な城を築いて幕府の攻撃を受けることにした。石を大量に運び込ませている。
正成挙兵の知らせは畿内を駆け巡っている。播磨の赤松円心はじっと動かない。
六波羅が動き出した。和田助康が討伐の命を受けたが、正成と近い関係にある。密かに使者を往復させ、犠牲を出さずに、それでいて激しく戦ったように見せることにしていた。六波羅の動きは和田家からある程度は分かる。
帝と正成の挙兵は器に僅かな水を足したが、溢れるほどには至っていない。時が必要である。
正成は早く幕府本隊とぶつかりたかった。それで幻に抱いている不安は消えるはずだった。
赤坂城に唖然とする大軍が来た。赤坂を踏みつぶせば、畿内の混乱は収束するとみているのだ。囲んでいるのは七万の幕府軍だった。
大軍だが、まとまりには欠けている。士気が旺盛というわけでもない。
かねて決めていた通りに動いた。正成が死んだという噂を流した。帝は隠岐へ配流となった。
悪党の活路は幕府を倒した後に開ける。でなければ、決起の意味がない。朝廷直属の軍に悪党が組み込まれ、武士と替わっていくのだ。
全土を朝廷の領とし、そこからの税で軍を養っていくのだ。
問題は朝廷の政事だ。幕府を倒す中で、廷臣の質が変わっていくのか。
坂東から大軍を引き出す。それは幕府の負担を増やすことでもある。畿内で何か起きるたびに大軍を出さざるを得ないのが幕府の弱点だった。
正成は伯耆の名和湊へ向かった。名和長高に会うためだ。
一方、護良は吉野に入っていた。同時に、吉野に倒幕の旗を掲げ、令旨を全国に飛ばした。
護良は考えていた。帝の国というのは、民の国ということでなければならない。帝は、民の上に立つのではない。民そのものなのだ。それを帝はどこまで理解してくれているのか。
正成は千早城の構築を急いでいた。
そして、赤松円心の挙兵が伝えられた。円心の決起は大軍の京への発向と同時だった。下手をすれば軍の一部は播磨に向かうであろう。その覚悟もしているらしい。
吉野に七万、千早赤坂に七万。それだけの軍勢が動き始めていた。
三千規模の軍勢が赤坂城に攻め、九度撃退した。吉野でも同じような攻撃を受けている。
悪党の活路。それが正成の求めたものだった。
正成を潰させない。今が正念場だった。正成を潰させないために戦を起こす。それが円心の時だった。
すべてが動き始めた。赤坂城が落ちた。時を同じくして吉野が落ちた。
千早城にこもるのは楠木一党の五百である。攻撃は連日続いた。敵は十数万いる。兵が余っている。
兵糧が十分あっても、間断なく攻められ、兵たちの頬が削げている。城内は地獄の様相を呈し始めている。
大塔宮の兵が敵の兵站を狙い始めていた。
籠城して半年。千早城は疲労の極みに達している。有力な武士で綸旨を奉じたものはいなかったが、武士だけには動いてもらいたくなかった。有力な武士が動いた時点で、武士と悪党の対決というかたちが崩れる。
だが、足利高氏が丹波で反幕兵を掲げた。この瞬間、正成が、大塔宮が、円心が思い描いた倒幕の形が崩れ去った。
あとは倒幕という行為があるだけだった。
六波羅が潰れるのはあっという間だった。
京の治安は保たれた。足利軍が機能的に動いたのだ。六波羅の代わりに足利が現れただけだった。
北条の支配が一掃された分、内部の複雑さが消え、いっそう純粋な武士として以前より強く存在しているようだった。
不意に、正成は両眼から涙があふれ出してくるのを感じた。
帝は暗愚だった。恩賞のやり方がそれをはっきりと尊氏に認識させた。
尊氏は大塔宮から戦をする力だけを奪うことに心を砕いてきた。まずは赤松円心を離した。大塔宮をさせる大きな力の一つが京から消えた。あとは楠木正成だった。正成さえ排除すれば大塔宮、いや、朝廷が力を失う。
大塔宮が正成とともに作ろうとしたのは、まぎれもなく朝廷の軍だと、尊氏は読んでいた。それを理解する器量を帝が持っていないというのが、皮肉なことに尊氏の救いとなっていた。
大塔宮が捕縛された。これで終わりかと正成は思った。帝は自らの首を絞めた。
処分も早かった。鎌倉に流罪。そして鎌倉で北条高時の遺児を擁した反乱がおき、その最中、大塔宮が死んだ。
その知らせを受けた正成の中には、どうしようもない、荒涼としたものだけがあった。そして憑かれたように、河内に寺社を建立し始めた。
大塔宮(護良親王)ゆかりの地
鎌倉宮(大塔宮)の紹介と写真の掲載。北方謙三氏の南北朝ものを読み終えて、訪ねたくなった場所。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。別名 大塔宮(おおとうのみや)。
本書について
北方謙三
楠木正成
中公文庫
目次
第一章 悪党の秋
第二章 風と虹
第三章 前夜
第四章 遠き曙光
第五章 雷鳴
第六章 陰翳
第七章 光の匂い
第八章 茫漠
第九章 人の死すべき時
登場人物
楠木正成
楠木正季…正成の弟
寺田祐清(鳥丸)
恩地左近
加布
尾布
護良親王(大塔宮)
北畠具行
仲円僧正
日野俊基
赤松円心
赤松則祐
金王盛俊
寺田方念
和田助康
服部元成
五辻宮
名和長高
足利高氏