鎌倉時代を俯瞰する
鎌倉幕府の成立時期から、その滅亡まで、約150年間の鎌倉時代を扱っています。
この時代の体制に関しては、権門体制論と東国王権論(二つの王権論)と二つの学説があるようですが、著者は権門体制論に批判的な立場のようです。
また、北条氏の官位が著しく低かった理由を、そもそも高い官位を欲しなかったためではないかと考えています。
この考えは本郷和人氏と同じです。(「承久の乱 日本史のターニングポイント」)
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鎌倉時代は約150年
政権の所在地や交代によって時代の呼び名が変わりますが、鎌倉時代において朝廷は政権を放棄し、将軍と幕府が政権を全面的に掌握したのでしょうか。
源頼朝の意図が全国を統治する政権を掌握することにあったのならば、幕府を創設せずとも、朝廷の主導権を握ればよかったのではないか、というのが著者の疑問です。
源頼朝が創設した幕府は統治機関としては、朝廷と比べて貧弱でしたので、従来の朝廷を利用した方が、強力な統治が実現できました。
そして朝廷の主導権を握る方法はいくらでもありました。しかし、天皇と朝廷は残され、それとは別に幕府が創設されました。
鎌倉は京都が果たしてきた首都機能を引き受けられるような規模ではありません。ですから、源頼朝に平安京に替わる首都を建設する野心があったようには思えないわけです。
150年の間に鎌倉の政治的重要性は高まり、京・鎌倉の二都を軸に政治が展開されます。
平清盛の政権を史上初の武家政権に位置づけ「六波羅幕府」と呼ぶ学説もありますので、源頼朝が鎌倉でなく、京を拠点にすることはありえた話です。
そうであれば朝廷と幕府が融合したような政権が発展したかもしれません。しかしそうはならなかったのは、鎌倉に幕府があったからです。
第一章 鎌倉幕府の成立と朝廷
治承・寿永の乱
寿永2(1183)年、平家は安徳天皇と三種の神器を持って京都を脱出しました。
後白河法皇がいたため朝廷は機能しましたが、天皇の不在は不都合でした。安徳天皇の還京を待つ案もありましたが、新王を擁立することになりました。
8月20日に即位した後鳥羽天皇です。高倉天皇の第4皇子でした。安徳天皇が壇ノ浦に身を投じるまでの1年半、2人の天皇が存在しました。
平家は九州で勢力挽回を図ることができず、瀬戸内海を制して自立した支配領域を持ちます。
東海道・東山道は源頼朝の支配下、北陸道・山陰道は源義仲の支配下でした。
このような状況のため、京都は市場を塞がれ、孤立した状態に置かれました。
10月14日、朝廷は宣旨により東海道・東山道諸国の年貢を復興し、神社・仏寺・王臣家領荘園が元のように領家に従うよう命じます。従わない者は源頼朝に沙汰させました。
源頼朝が年貢と荘園の復興を保証したから発給できた宣旨でした。
宣旨は源頼朝の奏請によって出され、源頼朝の権力を朝廷が公認し、源頼朝の権力は反逆者による非合法なものから公的存在に転じたと評価されます。
屋島に撤退した平家は1年命脈を保ちますが、その間に源頼朝は戦乱で乱れた秩序の回復に努めます。
平家の所領は没収され「平家没官領」として源頼朝の権力基盤の一つになります。
鎌倉幕府と鎌倉時代の始まり時期について
筆者考えは次の通りです。
鎌倉幕府は治承4(1180)年に源頼朝が挙兵して鎌倉を拠点にした時点のさかのぼる。鎌倉時代がいつ始まったのかは、寿永2(1183)年。
征夷大将軍
元暦2(1185)年、平家が滅びます。
源義経は鎌倉に入ることが許されず、「腰越状」をしたためたとされますが、おそらくは後世の創作で、史実は、源義経は鎌倉に入っていました。
この時期はまだ源頼朝との対立は決定的ではありませんでした。
10月になると源行家が離反の動きを見せます。源義経は止めますが、かなわないとなると、かえって同心し、源頼朝追討の宣旨を朝廷に願い出ます。
右大臣九条兼実の意見にかかわらず、源頼朝の追討の宣旨が出ます。しかし従うものがおらず、源行家と源義経は亡命の道を探ります。
一方で宣旨を出した朝廷の関係者は源頼朝への弁明の準備を行います。
北条時政が入洛し、諸国荘公の兵糧米徴集と田地知行が認められます。これは源行家と源義経の追討のための軍事体制を展開する用意で、臨時の措置と思われます。
後世に、このことが幕府の守護・地頭設置を朝廷が勅許したと解釈されます。
地頭制度成立の画期がこの時期であったのは間違いありませんが、源頼朝はこの様な強権を握る理由として二人の逃亡と諸国の治安が乱れていることを理由としていますので、臨時の措置として朝廷側は受け取ったと思われます。
源行家が討たれると、いつまでも戦時体制ではいられなくなります。
地頭職は平家没官領・謀反人所帯跡に限って設置されるという原則が確立します。鎌倉時代通じて有効となります。
謀反人が発生すれば地頭職を設置する理由となりましたので、承久の乱によって大量の地頭職が設置されます。
地頭は従来の下司に相当します。違いは任免権者です。下司は本所(荘園領主)、地頭は源頼朝でした。そのため、本所にとって地頭は極めて厄介な存在となります。
奥州合戦
文治5年、源頼朝は奥州侵攻のために全国の武士を動員します。
内乱期の主従関係を清算して、平時の御家人体制を構築していく目的がありました。また、全国支配の達成をかたちに示すことです。
同年末、治承4年以来の戦乱で没した数万の怨霊をなだめる目的で永福寺の建立が始まります。
翌年の建久元(1190)年、源頼朝は30年ぶりに上洛します。
征夷大将軍
朝廷は源頼朝を治安維持体制の一角に組み込もうとしますが、頼朝も主従制の拡大のために利用します。
建久2(1191)年、平氏が握っていた諸国の武士を上洛させて内裏の諸門を警護させる大番役を統括する権限、国家の治安維持を総括する権限に相当する権限が源頼朝に認められます。
建久3(1192)年、国衙に結集する武士の大番頭を統率する守護を支配する権限も掌握します。
そして、守護を通じて諸国の武士を統率する地位として「大将軍」を求めます。
「大将軍」に相当する官職は複数ありますが、坂上田村麻呂の征夷大将軍が吉例として任じます。
征夷大将軍が幕府の首長を指すようになるのは源頼家から源実朝への交代以降です。
北条氏台頭
北条氏台頭のきっかけは建仁3(1203)年の源実朝への将軍交代です。
北条時政は源実朝の署判による下文の発給をとどめ、自らの署判による文書を発給しました。下知状と呼ばれる様式の文書は鎌倉幕府発給文書の中で重要な役割を果たしていくことになります。
北条時政が下知状に署判を加えることができる根拠は、大江広元と並んで政所の別当になったからと思われます。
別当は一人とは限らず、複数の別当のうちで代表して職務を行使する者を「執権」と言いました。
当初は執権別当として下知状に署判を加えていましたが、やがて逆転し、下知状に署判を加える役職が執権であり、執権は必ず政所別当に加わるものと認識されるようになります。
下知状に署判を加える執権の地位を世襲したことが北条氏の権力基盤になったわけではありませんでした。
北条時政から北条義時に順調に引き継がれたわけではなかったからです。
北条時政は北条義時によって追放されました。
元久2(1205)年、畠山重忠を滅ぼした事件を巡り、北条時政・牧氏と北条政子・北条義時が対立します。
北条時政を追放した後の下知状は北条義時の署判ではなく、政所の五人の連署により発給されました。
五人は官領でしたので、政治の実験を掌握していたわけではありません。最有力者は北条義時でしたが、建暦3(1213)年に和田義盛を滅ぼしたあとの承元3(1209)になって政所下文に署判を加えるようになります。
建保7(1219)年、源実朝が暗殺されます。後嗣には源頼朝の妹の血筋を引く九条道家の子・三寅(後の頼経)が迎えられました。
下知状に北条義時が署判するようになるのはこの頃からです。
この時代を扱ったのが2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でした。
後鳥羽院
後鳥羽天皇が19歳の建久9(1198)年に土御門天皇に譲位し、本領を発揮し始めます。
承元4(1210)年には土御門天皇から順徳天皇に譲位されます。
承久3(1221)年、順徳天皇から仲恭天皇に譲位されます。
承久の乱
源実朝の暗殺は朝幕関係を変化させました。
実朝の名は後鳥羽院が命名したものであり、実朝の妻は後鳥羽院の従妹であり、歌人としてもつながりがあったため、親近感を抱いていたと思われます。
そのため北条義時が実権を握ったことは快く思わなかったでしょう。
承久3(1221)年、後鳥羽院は京都守護の伊賀光季を討ち、北条義時の追討を命じる宣旨を出します。承久の乱です。
宣旨が命じるのは北条義時の追討であり、倒幕ではありませんでした。
倒幕が目的であれば、追討の対象は将軍ですが、三寅が元服前の幼齢であることをいいことに専権を振るっていることが謀反と断じられたのでした。
北条義時追討のために立ち上がるのが求められたのは、諸国の守護人、荘園に地頭でした。
後鳥羽院は鎌倉幕府成立前の体制に守護人と地頭を再編成しようとしたのでしたが期待通りにはいきませんでした。
幕府軍が京都に入洛すると、後鳥羽院は六条河原の幕府軍に使節を送り、北条義時追討の宣旨を撤回し、幕府の指示に従うことを伝えます。
幕府軍を指揮していた北條泰時と北条時房は六波羅に入り戦後経営を行います。のちに六波羅探題と呼ばれる地位です。
鎌倉に勝利の報告がされると、乱に加担した廷臣の処分が決められました。
幕府の使節として二階堂行盛が入洛し、治世に関する意向が伝えられ、後鳥羽院の兄・入堂行助親王(=後高倉院)が院政を行うことになり、子の後堀川天皇が即位します。
後高倉院は皇位を経験せずに院政を行った唯一の例です。
ここに院政の本質が出ています。
院政は天皇の直系尊属が政治を主宰することであり、皇位を経験していることは要件ではありません。
乱の責任を負わされたのは、後鳥羽上皇と順徳上皇でした。土御門上皇は自ら希望して遠所に遷されました。
後鳥羽院についていたものは謀反人として所領が没収されます。
新たに設置された地頭を新補地頭といいますが、承久の乱の結果大量に新たな地頭が設置され、新補地頭といえばこの時の地頭をさすようになります。
承久の乱に関しては次の本が参考になります
第二章 執権政治の時代
執権泰時と御成敗式目
貞応3(1224)年、北条義時が急死し、六波羅にいた北条泰時が鎌倉に下向し、執権に就任します。
北条義時の死後、一条実雅を将軍に戴き、泰時の異母兄・北条政村を執権にする動きがありましたが、政子がこの計画を認めず、三浦義村が政村を支持するのを牽制し、泰時を強力に支持します。
政子は三寅を抱いて泰時邸に入ったことで決着しました。
政子が1年後に危篤に陥ると、六波羅から北条時房が戻り、泰時は時房に執権の補佐をさせることにします。下知状に執権と並んで署判を加えるため「連署」と呼ばれるようになります。
執権と連署は基本的には同格であり、両者を合わせて「両執権」と呼ぶことがあります。
三寅が元服し藤原頼経として征夷大将軍に補せられると、頼経が署判を加えて下文が発給されることとなりました。
並行して泰時、時房による下知状も発給され続けました。
本来、下知状は下文の代用でしたが、自立した文書となり、執権の地位も将軍から自立して確立しました。
また、下文の用途は限定され、訴訟の裁許にはもっぱら下知状が用いられました。そのため「御下知」といえば裁許状指すようになります。
裁許状にもっぱら下知状が用いられたのは、鎌倉幕府が主従関係によって構成されていたという構造的要因も存在しました。
将軍と御家人は主従関係にあったため、相論(=訴訟)の際には第三者として公平に判断する立場にはありませんでした。
一方で執権は御家人ですので、第三者として公平に判断することが可能でした。
下知状は形式的には将軍の命令として発給されましたが、第三者による理非の判断ギリギリのところで実現されたものでした。
御成敗式目
寛喜2(1230)年は異常気象により飢饉に見舞われました。
飢饉の影響は幕府が人身売買の再禁止を発令した延応元(1239)年頃まで続きました。
御成敗式目はこうした状況で制定されました。自然災害も政治に責任があり、災害を鎮めるためには徳政が行われるべきと考えられていたのです。
寛喜3(1231)年、朝廷が42ヶ条からなる新制を制定します。弛緩して秩序の回復をはかるためのものでした。また、建久2年に源頼朝に認められていた地位・機能も再確認されました。
貞永元(1232)年、51ヶ条からなる御成敗式目が制定されます。
古代の律令とは異なり法を網羅的に規定するものではなく、極めて重要な法理についての応用や例外を規定されているように見受けられます。法理そのものの規定はどこにもないものでした。
例えば、所領譲与に関する規定の中で、当時最も重要な「悔返」の法理が規定されていませんでした。規定されているのは応用と例外のみです。
御成敗式目は一定の体系性を備えていましたが、新しい法が規定されたわけではなく、既に存在すると認識されていた法についての最大公約数的理解をまとめたものといえます。
将軍と執権
延応2(1240)年、連署の北条時房が亡くなり、仁治3(1242)年、執権の北条泰時が亡くなります。
後継の執権には泰時の孫・経時が19歳で就任しました。
将軍の藤原頼経は25歳で、この年齢差が将軍の権威を押し上げました。
若き執権の地位は前執権に比べて下がりました。
こうした中でも北条経時は精力的に執政しました。後の引付設置につながる改革を行います。
寛元2(1244)年、将軍が交代します。北条経時主導と思われますが、藤原頼経は新将軍の父として権勢を誇ります。院政と同じで、大殿と呼ばれました。
藤原頼経の周りには執権に不満を持つ勢力が集まりました。三浦氏や、北条一門の名越家などです。
北条経時の体調が悪化したことにより弟・時頼に執権を譲ると、時頼は反対派を粛清します。大殿の藤原頼経も京に送還されました。
乱後の朝廷
仁治3年、四条天皇が急死します。子がおらず後高倉院の皇統に皇子がいませんでした。
故土御門天皇の皇子と順徳上皇の皇子が候補者となります。
当時の朝廷主導していたのは前摂政の九条道家でした。道家は順徳上皇の皇子が皇位を継ぐことを期待して幕府に飛脚を送ります。
道家は実子が将軍でもあることから希望通りに回答が来ると考えていましたが、期待は外れ、幕府の使節として入洛した安達義景が伝えたのは、土御門天皇の皇子を皇嗣とすることでした。
当時の執権・北条泰時が土御門天皇の皇子を指名したのは、順徳上皇の皇子を皇位につけたなら、配流地から院政を行わせようとすることが予想されたからです。
かつて九条道家は後鳥羽院、順徳上皇の還京を計画したことがありました。この時、北条泰時は断固として拒否しました。
承久の乱を大将として戦い、六波羅で戦後処理にあたった北条泰時にとって順徳上皇の復権は容認できませんでした。
土御門天皇の皇子が皇位を継承し、後嵯峨天皇となります。
後嵯峨天皇は寛元4(1246)年に後深草天皇に譲位し院政を開始します。
北条時頼が執権に就任すると、宝治元(1247)年には将軍の藤原頼経が戻されます。
朝廷と幕府の連絡役である関東申次は西園寺実氏が指名され、徳政を行うことが求められました。「徳政」とは文字通り徳のある政治のことです。
関東申次は西園寺実氏の子孫が世襲していくことになります。
五摂家の分立
摂政・関白の地位は藤原道長の子孫に独占され、摂関家という家格が成立します。
摂政・関白に就任しなかった者の子孫は、この職に就任する資格を喪失しましたので、家が淘汰され、五つの家に固定されます。
家格の順に近衛、九条、二条、一条、鷹司であり、五摂家と呼んでいます。
得宗家の成立
北条家の家督を得宗と呼びます。歴代の得宗は次の9人です。全員「時」の字がつく名前です。
- 北条時政
- 北条義時
- 北条泰時
- 北条時氏
- 北条経時
- 北条時頼
- 北条時宗
- 北条貞時
- 北条高時
北条時宗は建長3(1251)年に生まれました。この年、北条時頼による建長寺の造営が始まりました。
建長4年、幕府は後嵯峨天皇の皇子を将軍として下向させることを願い出ます。宗尊親王が征夷大将軍となり新将軍として鎌倉に入りました。
この年、鎌倉の深沢で金剛八丈の釈迦如来像の鋳造が始まります。これが今日の鎌倉大仏と考えられていますが、現在の大仏は阿弥陀如来です。
建長8(1256)年、幕府では執権・連署を含む首脳陣が交代しました。
連署が北条重時から北条政村に交代し、執権が北条時頼から重時の嫡子・長時に交代しました。時宗が成人するまで職務を預ける人事でした。
北条時頼が執権を辞してから7年後に亡くなりますが、この後、幕府政治において得宗が執権の座にあるとないとに関わらず実権を握るようになります。
時頼と重時が引退・出家したあとも御家人社会で権威を終生保ったことは、直ちに得宗専制政治の出現を意味するわけではないですが、成立の土台になったと思われます。
連署の北条政村が執権に移り、北条時宗が連署に就任します。9歳年長の将軍・宗尊親王は疎ましい存在となります。
時宗が連署に就任すると、庶兄の時輔が六波羅南方に赴任します。時輔と時宗の競合を避ける狙いがあったと考えられます。
文永3(1266年)将軍の宗尊親王が京へ送還されました。きっかけは御息所の密通事件です。
二月騒動
文永5(1268)年、モンゴルからの国書到来により、執権の北条政村が連署に下がりました北条時宗が執権になりました。
4年後、文永9年に名越時章、教時兄弟が討たれます。その4日後、京都で北条時輔が討たれます。
二月騒動と呼ばれる事件ですが、謀反の計画があったというよりも、謀反の幻影におびえた時宗らによって引き起こされたものと思われます。
第三章 モンゴル戦争
対外関係
治承・寿永の乱で焼失した東大寺の再建事業により、鎌倉文化を代表する東大寺南大門や金剛力士像が作られました。
建築は大陸の影響を受けた大仏様といわれる新様式でした。東大寺の再建事業を勧進上人として主導した重源は3度入宋したと称していました。事業を引き継いだ栄西も2度入宋しています。
栄西は臨済宗と茶の習慣を宋から伝えたことで知られます。博多に聖福寺を建立し、鎌倉で寿福寺の住持を務め、京に建仁寺を創建します。
他にも入宋経験のある僧は数多くいました。
- 退耕行勇…栄西のあとに東大寺の勧進上人となります
- 俊芿…北京律を興し泉涌寺を再興します
- 道元…曹洞宗を伝え、永平寺を開きます
- 円爾…博多承天寺、京都東福寺の開山となります
- 心地覚心…紀伊国由良の興国寺の開山となります
来日する僧もいました
蘭渓道隆は日本に禅を広めるために渡来し、建長寺の住持に招かれました
遣唐使に随行して渡海した時代から変わり、入宋僧・渡来僧の渡海は、東シナ海上を行き来する海商たちによっていました。
一方で海外から来た海商も博多に多く居住していました。
重源のもとで東大寺大仏の鋳造に当たった陳和卿はそうした一人でした。後に鎌倉で源実朝に会い、医王山参拝を発願させ、渡海のための船を作らせますが、浮かべることに失敗し、渡海が立ち消えになりました。
建保6(1218)年、博多で宋商人の張光安が殺害される事件が起きます。背景には、博多津の支配をめぐる延暦寺と石清水八幡宮の争いがありました。
初期倭寇に関することも出てきます。高麗国から1227年に多くの船がきて悪事を働いており、そうした不法行為が倭寇として認識されるようになります。
文永・弘安の役
モンゴルの国書が文永5(1268)年にもたらされます。その後、別の文書がもたらされ、モンゴル襲来の危機を察知し、防備の対策をとります。
西国に所領を有する御家人に異国に対する防御と国内の悪党鎮圧を命じます。
この命令が出された前日に日蓮が捕らえられ、佐渡に流罪となります。
文永の役の後、恩賞は合戦の翌年に行われました。
しかし弘安の役の恩賞は難航しました。恩賞にあてる所領の確保が難しかったためです。
第四章 徳政と専制
弘安7(1284)年、執権・北条時宗が亡くなります。継いだのは北条貞時でしたが、執権就任まで3ヶ月の空白があり、その間に時宗死後の政局をめぐる事件が起きました。
貞時が執権に就任する前に新御式目が示されました。
時宗の死後に安達泰盛によって主導された改革は徳政を体現するものでした。徳政とはあるべき姿から逸脱した政治を元に戻すのが眼目です。
幕府によって推進された安達泰盛の改革政治は弘安徳政と呼ばれます。
霜月騒動
安達泰盛が強力に改革政治を推し進めれば、不満を持つものが現れます。
内管領の平頼綱が得宗の北条貞時に訴え、弘安8(1285)年11月に塔辻周辺で合戦となり、安達泰盛、宗景親子らが討死ないし自害します。
この事件を霜月騒動と言います。
このあと幕政を主導したのは内管領の平頼綱でした。
安達泰盛による鎮西神領・名主職回復令は、異国と戦う神々や御家人の体制を立て直すために、不知行となっている所領を取り戻すことを認めるものでしたが、霜月騒動以後は真逆の法が発令されます。
鎮西神領・名主職回復令は現地に相当の混乱を引き起こしたようです。不知行所領の取り戻しを認めることは、所領を現に有している者を排除することになるからです。
訴訟が増え、政策の破綻が霜月騒動に繋がったと考えられます。
両統迭立
北条家によって擁立された後嵯峨天皇は皇太子が4歳になると譲位します。新帝は後深草天皇でした。譲位した後嵯峨上皇は院政を開始します。
その後、新たに皇子が生まれ皇太子にたてられ後深草天皇から皇位を譲られます。亀山天皇です。
文永9(1272)年、後嵯峨法皇が亡くなると、朝廷では亀山天皇の親政が行われました。
2年後の文永11(1274)年、亀山天皇は子の後宇多天皇に譲位します。この時、後宇多天皇は8歳だったため、皇太子の席が空きますが、亀山天皇には直系卑属が他にいませんでした。
一方で、亀山天皇の兄・後深草上皇には皇子がいました。
皇位をめぐる構造はこのようでしたが、幕府はモンゴルとの戦争の最中にあり、同じころ、得宗家内でも時宗と時輔の対立があり、内憂を取り除くために、朝廷については融和を図ります。
その結果、後深草の皇子を皇太子にたてることにしました。これが皇統を分裂させる原因になるとは考えていなかったのではないかと思われます。
後深草・伏見の皇統を持明院統といい、亀山・後宇多の皇統を大覚寺統といいます。
単に一つのものが二つに分かれたのではなく、持明院統・大覚寺統それぞれが後嵯峨以前の皇統を継承した側面がありました。皇位についた先祖の菩提を弔う行事を継承するという意味においてです。
それぞれの皇統が膨大な荘園群を管領していたことから、その継承が政治問題になりました。長講堂領は持明院統、八条院領は大覚寺統、室町院領は両統で分割されました。
第四章 徳政と専制
得宗専制
正応6(1293)年、大地震が起き、鎌倉では寿福寺、建長寺などが罹災し、多くの死者が出ました。
この混乱が続いていると思われる中、平禅門の乱が起きます。内管領の平頼綱と次男・資宗が北条貞時の命で討たれたのです。
貞時による新たな政治が始まりました。
評定衆、引付衆、奉行人から起請文を徴し、越訴頭人に大仏宗宣と長井宗秀を任じ、庭中の迅速処理などが整えられました。
また、引付に北条師時が任じられます。貞時にとっては従弟ですが兄弟のように育った関係でした。
他に引付頭人に替えて執奏という職が設けられました。この制度改革は訴訟審理を促進する徳政と受け止められました。
しかしこの貞時の政治はわずか1年で挫折します。
永仁の徳政令
永仁5(1297)年、幕府は三か条の法令を制定しました。第二条が質流れ・売却地の取り戻しについて規定したもので「永仁の徳政令」として知られるものです。
研究が進むにつれ、永仁の徳政令は史上初の徳政令ではなく、典型例でもなく、むしろ徳政令を出しながらも、適用を極力制限しようとする配慮が加えられていました。
質流れ・売却地について元の持ち主の知行を認めるか、今の持ち主の知行認めるかについて判断基準としたのは、知行主が御家人かどうかでした。
永仁の徳政令は御家人所領が質に流されたり売却された場合について規定されたものでした。
中世社会一般に作用していた徳政令・徳政は御家人に限定したものではありませんでしたが、永仁の徳政令は適用資格を御家人に限定したものでした。
限定されたのは適用資格だけでなく、期間もほぼ1年に限定されました。
嘉元の乱
正安3(1301)年、北条貞時は従弟の師時に執権を譲って出家します。執権の交代により連署も大仏宣時から北条時村に交代します。
嘉元3(1305)年、鎌倉を大地震が襲います。この混乱の中で連署の時村が追討されます。しかし追討は誤りとして討手が斬首に処されます。この張本人は北条宗方だとされ、貞時に会いに向かい、数名と戦い斬死します。
宗方は貞時の7歳年長で、おそらくは共に育った貞時を支えるのに懸命だったのではないかと見えます。
時村追討は宗方の指示であることは疑いようが無いのですが、背景には諸説あるようです。
時村の横死により空席となった連署には大仏宗宣が就任します。
応長元(1311)年、得宗・北条貞時が亡くなります。天下触穢が30日と定められました。得宗の地位の重みが貞時の時代にはるかに増したことの現れでした。
第五章 裁判の世界
幕府の裁判所は、治承・寿永の乱の最中の元暦元(1184)年に源頼朝邸の東面ニか間が問注を行う場所に指定され、問注所の額を打たれたことに始まります。
鎌倉時代の所領相論を原因によって分類すると、本所地頭間相論、遺跡相論、境界相論に分けられます。
- 本所地頭間相論は荘園に地頭が設置されたことにより本所との間に惹起した相論です。
- 遺跡相論は、遺産相続をめぐる相論です。
- 境界相論は土地の境界をめぐる相論です。
12世紀に武士による所領の大規模開発が行われ、分割相続が行われました。
しかし、12世紀末までには当時の技術水準で開発可能な土地は開発し尽くされ、所領の規模も経営の適正規模まで分割されていたと思われます。
分割相続する所領がもはやないという中で、少ない所領をどう分割するかを巡って相論が起こるわけです。
治承・寿永の乱や承久の乱で所領の再配分が行われましたが、戦争が所領再配分の機会として機能したのは宝治合戦(1247年)までで、その頃から単独相続へ移行しようとする努力が行われます。
12世紀の大規模開発は本所と下司・地頭という重層的な領有構造と分割相続という相続形態を生み出します。
しかし開発が限界に近づくと二つの構造による社会矛盾を生み、訴訟が続発します。
本所と下司・地頭という重層的な領有構造は鎌倉時代末期に公武権力を悩ませた「悪党」の根本要因となります。
第六章 鎌倉幕府の滅亡
以前は鎌倉幕府滅亡の原因をモンゴル戦争に求めるのが一般的でした。
モンゴル戦争への恩賞がなく鎌倉武士が窮乏し、幕府は御家人窮乏を救うために徳政令を出しますが、混乱と不平等であることから幕府の信頼が失われて社会不安を醸成させ、不満を持つ武士が後醍醐天皇の倒幕計画に結集したというものでした。
この見方は修正されつつあります。
徳政令は悪法ではなく、正当と認識されていたことが明らかにされました。
またモンゴル戦争に対する恩賞は少なかったのは確かですが、窮乏の主要因ではなく、窮乏化せざるを得ない分割相続の構造がありました。
悪党
悪党の実態は、本所による荘園支配再編の動きから排除された者でした。
悪党は典型的には夜盗、山賊、海賊を指しましたが、鎌倉時代後期に重大問題となったのは確かですが本所が荘園支配に敵対する者を告発するのに悪党という言葉を用いて、幕府も悪党として告発された者を捕まえたからです。
犯人を捕まえるのは本所の責任で、幕府は本所領の境界で犯人を受け取るのが本来でした。
本所に敵対する者を幕府に処断させるためには、国家的重犯罪であり、幕府の使節を本所領に特別に入れることが必要でした。
これに対応するために、正応3(1290)年から永仁3(1295)年の伏見天皇親政時期に、違勅狼藉を検断することが綸旨・院宣により命じられた場合は受理する制度を整えます。
六波羅探題は違勅院宣・違勅綸旨を受け取ると、使節2名を指名して在所に入部して捕らえました。
在所に入部して捕らえるのは強権発動ですので、文書は衾御教書と呼ばれました。
この制度を利用して本所が敵対者を告発する事例が増えたことが悪党問題の実態でした。
後醍醐天皇
持明院統と大覚寺統の皇位継承の中で、花園天皇の皇太子として立てられたのは、花園天皇より9歳年長で21歳だった尊治でした。
尊治の立場は大覚寺統の中継としてのものでした。
文保元(1317)年、幕府は使節を上洛させ譲位と次の皇太子について両統が和談することを求めました。
幕府は調停に疲れ当事者間の和談による解決を求めたのでした。しかし和談は整いませんでした。
両統が合意したわけではありませんでしたが、幕府が和談を勧告し、それをめぐる交渉が行われた経緯を指して文保の和談と呼ばれています。
この年、伏見法皇が亡くなり、翌年の文保二年に後宇多法皇が院政をはじめ、尊治が位について後醍醐天皇となりました。
正中の変
元亨元(1321)年、後宇多法皇が後醍醐天皇に治世を譲ります。
元亨4(1324)年、幕府に対する謀反の陰謀が発覚します。
密告された土岐頼有と多治見国長は合戦の末に自害します。
陰謀の張本として日野資朝と日野俊基が捕らえられました。
この年に改元され正中元年になったため、事件は正中の変と呼ばれます。
正中の変が起きた時、幕府は20年前に決着したはずの室町院遺跡をめぐる相論に悩まされていました。
幕府の崩壊
応長元(1311)年、執権の北条師時が亡くなります。その後、短期間のうちに執権と連署が次々に変わりました。
そして北条貞時の遺児・高時が執権に就任します。
この頃、山陽・南海方面で悪党が活発化していました。北方では蝦夷の反乱が幕府を悩ませていました。
北条高時が24歳で出家すると、また執権が短期で交代します。最後の執権となる赤橋守時は得宗・高時より年長でした。
元弘の変
元徳3(1331)年、高時を呪詛した嫌疑で僧侶の円観、文観、忠円と日野俊基が捕らえられ鎌倉に送られました。
程なくして、鎌倉では長崎高頼が捕らえられ、流罪になります。
幕府が混乱の中、後醍醐天皇は京都を脱出して木津川南岸の笠置山に立て籠ります。河内では楠木正成が挙兵しました。
幕府は承久の乱の時同様に大軍を送り笠置山を攻略し、京都に使節を送り後醍醐天皇不在のまま後伏見上皇の詔により持明院統の光厳天皇を皇位につけました。両統迭立の原則は守られました。
後醍醐天皇は捕らえられ、六波羅探題に送られ、神器は光厳天皇に渡されました。
楠木正成が立てこもる楠木城に幕府は四つの軍勢を送ります。伊賀路から攻略した軍勢の大将が足利高氏でした。
元弘の変の関係者の処分が行われ、元徳4(1332)年に後醍醐天皇は隠岐に送られ、皇子らも土佐や讃岐、但馬に流されました。日野俊基は化粧坂を登った葛原で処刑されます。(史跡:日野俊基の墓)
捕らえられなかった皇子の大塔宮や楠木正成は活動を活発化させます。大塔宮は還俗して護良と称しました。(護良親王ゆかりの地:鎌倉宮(大塔宮)、護良親王墓所)
その後、播磨で赤松円心が護良親王に味方し、鎮西では菊池武時が挙兵します。
後醍醐天皇も隠岐を脱出して伯耆の船上山に入りました。幕府は後醍醐天皇を討つために名越高家と足利高氏を派遣しますが、足利高氏が離反します。
これにより多くの御家人が離反します。
新田義貞も上野で挙兵し、武蔵の分倍河原で幕府軍を破り、これが転機となって関東でも御家人が離反しました。
鎌倉の稲村崎の守りが破られ、鎌倉が戦場となって得宗・北条高時が自害し、得宗政権が滅亡しました。
おわりに
鎌倉幕府は鎌倉殿の政権として始まり、得宗の政権として終わりました。
得宗の地位は官制に位置付けられるものではないですが、事実上の最高権力でした。朝廷もその権力に従いました。
かつては、幕府が朝廷に介入して皇統を分裂させたとか、得宗専制が武家社会のみならず公家社会にまで及んだとされたことがありましたが、事実は異なりました。
幕府は皇統をめぐる争いに介入することに消極的だったのですが、公家社会の方が得宗に公権力の行使を求めたのでした。
時宗や貞時は得宗として生まれたということで、死に際して天下触穢の原因になると考えられました。
もはや得宗は王権の属性を有すると言って良いと思われますが、朝廷からの官位はとんでもなく低いものでした。
北条氏は出自が卑しいから将軍になれなかったという考えもありますが、北条氏の出自は出世を妨げるほど卑しくはありませんでした。
真偽はともかくとして、北条氏は桓武平氏の一流として社会的に認知されていましたので、平清盛と同等までの出世は可能だったはずです。
得宗が官位上昇を遂げなかったのは、できなったというより、そもそもする気がなかったのではないでしょうか。
得宗が京都にいたなら事情は異なっていたでしょう。官位序列の秩序の枠組みにとらわれるからです。
しかし得宗は鎌倉を拠点にしていましたので、京都の廷臣は関東太守の声として聞いたのでした。
権門体制論では将軍以下の幕府要人は朝廷から官位を授けられたため、幕府は独立した組織ではなく、朝廷、寺社同様に幕府も権門の一つであり、三つの権門が職能を分担しながら相互補完的に国家を形成していたと考えます。
しかし権門体制論では一部を見て大部分を見ていないのではないかと思われます。
幕府は朝廷の枠に収まらない大きな部分があり、鎌倉を拠点にしていたからこそ可能でした。
京都から離れて150年も存続したことは、朝廷と幕府は別物という恒常的な意識をつくることになりました。
足利氏によって樹立された二番目の幕府は京都を拠点にはしていましたが、幕府と朝廷は並行するものという意識が定着していました。
中身は統一政権であっても、外形的には朝廷と幕府は別物として維持されました。
天皇と朝廷は統治機能を喪失し、外形のみの存在だったためその地位にいても許容され得たのだとも言えます。
朝廷と幕府は別のものとして並立する「かたち」は明治維新まで維持されますが、その「かたち」ができたのが鎌倉時代でした。