祇園祭の時期に京都を訪れましたので、祇園とともに歩んできた八坂神社を参拝しました。
祭りのピークは過ぎた感はありましたが、華やかな雰囲気は残っていました。
八坂神社(やさかじんじゃ)の歴史
二十二社(下八社)。旧官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社やスサノオノミコト(素戔嗚尊)を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社。
通称、祇園さん。7月の祇園祭(祇園会)で知られます。
この日、祇園方面の西楼門から入ったのですが、本殿の向きを考えると南楼門から入るのが正しいように感じました。
西楼門の方が華やかなので、正門だと思ってしまったのですが、正門はどう考えても下河原町通りに面する南楼門なので、もう一度入りなおしました。
古社ですが式内社ではありません
確実に古代から存在する神社ですが、式内社ではなく、式外社でもありません。不思議です。
神仏習合が8世紀頃から中央および地方で神宮寺の成立により始まり、延喜式が成立した10世紀には寺院の別院等になった神社が全国に見られるようになりました。
八坂神社もそうした神社で、当時はおそらく奈良の興福寺か京都の延暦寺の影響を強く受け、それゆえに神社としてはみなされなかったためのようです。
こうした例は他にも多くあり、古社であることが確実にもかかわらず、延喜式に載っていないので式内社ではないことになってしまいます。歴史の面白いところです。
創祀
当社は慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
https://www.yasaka-jinja.or.jp/about/
牛頭天王と素戔嗚尊
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていました。
慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名されます。
斉明天皇2年(656年)に高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされますが、これは根拠に乏しいらしいです。伊利之使主は八坂氏の祖といいます。
別の説として、祇園社は貞観18年(876年)に僧の円如が牛頭天王を迎えて堂宇を建立したところから始まる、というのもあります。
播磨国の広峯社からの遷座説というのもあります。吉田神道に始まり、江戸時代には通説化していましたが根拠が乏しいです。
平安時代の史料には遷座に関することが全くあらわれず、鎌倉時代以降になってあらわれるのですが、広峯社側の史料にしかありません。
五味文彦「中世社会のはじまり」によると、別の縁起もあるようです。
御霊会が行われた京の東の八坂の地に、延長四年(九二六)に興福寺の僧が春日社の水屋を移して祇園天神堂となしたのが祇園社の起源で(『日本紀略』)、祇園祭の起こりは、天延二年(九七四)に高辻東洞院を旅所として神幸するので祀るようにという神託があったことによる。それ以来六月七日に神幸し、六月十四日に本社に帰ることとされ、この間、様々な芸能が奉納されるとともに、朝廷からは馬長の童が神幸の行列に向けて献じられるようになったのである。
五味文彦「中世社会のはじまり」p17
当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されおり、牛頭天王やスサノオノミコトは出てきません。
別の神が祭神だった可能性があり、後になって牛頭天王とスサノオノミコトが習合したのかもしれません。
(神仏習合については、義江彰夫「神仏習合」に詳しいです。)
祇園祭の起源
祇園祭は、貞観11年(869年)に神泉苑で行われた御霊会を起源とします。
菅原道真の怨霊を鎮めるために朝廷が神泉苑で御霊会を行った時期に重なります。
そして、天禄元年(970年)ごろから祭礼として毎年行われるようになりました。
祇園社は奈良の興福寺の末社でしたが、10世紀末には京都の延暦寺が末寺としました。
延久2年(1070年)には鴨川の西岸の境内として認められ、朝廷権力からの不入権が認められるようになると、紀氏一族が世襲支配するようになります。
室町時代の元中元年(1384年)に足利幕府3代目将軍の足利義満は、祇園社を比叡山から独立させました。以後、祇園祭は経済力をつけていた京の町衆により行われるようになります。
御霊会とは、元来、非業の死をとげた人々(早良親王、伊子親王など)が御霊となって疫病をはやらせると考えられていたのが、架空の外来の疫神である牛頭天王に仮託されるようになったもの。そして、一〇世紀から一一世紀にかけて、洛外の深草・八坂・紫野などで疫神をまつる御霊会が行われるようになり、それぞれ稲荷祭・祇園祭・今宮祭へと発展していった。
これらの祭りは元来民によって始められたが、疫神をまつる神社を京内におくことは朝廷によって禁じられていたため、祭りの間だけ、京内に祭神を迎えて神事を行った。その場所が御旅所である。
祭りの後、祭神は洛外の本社へ帰っていくのだが、この帰って行く行列を人々は見物した。祇園祭の場合は、三条大路・四条大路を祇園社へと東へ向かっていく。稲荷祭の場合には、七条大路を稲荷社へと東く帰っていった。
古瀬奈津子「摂関政治」(シリーズ日本古代史⑤)p130
慶応4年=明治元年の神仏習合禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改めました。明治4年(1871年)に官幣中社に列格し、大正4年(1915年)に官幣大社に昇格。
(神仏習合禁止(=神仏分離)については安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」に詳しいです。)
朝野の崇敬
元慶元年(877)疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。そのため各社に祈り奉幣が行われたが、一向に治まらなかった。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止んだ。これが祇園社の発展の契機となり、僅か2年後の元慶3年(879)には陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、また同地の材木商人360人は神人に補せられ、経済的基盤が早くも確立した。
また、藤原氏の崇敬もあつく基経(昭宣公)は、その邸宅を寄進、感神院の精舎としたと伝わり、道長もたびたび参詣した。藤原氏全盛時代の中心人物の崇敬は、当社の地位が次第に高まることにむすびついた。
円融天皇は、天延3年(975)6月15日に走馬・勅楽・御幣を奉られ、これ以後、祇園臨時祭が6月15日に継続執行されるようになったと考えられている。
そして、長徳元年(995)には、王城鎮護の社として尊崇された二十一社のうちの一社となり(のち二十二社)、延久4年(1072)3月24日には後三条天皇が行幸された。当社への天皇行幸の最初であり、以後、天皇・上皇の行幸はたびたびあった。
いっぽう武家の崇敬もあつく、平清盛の田楽奉納・源頼朝の狛犬奉納、また足利将軍家も社領の寄進・修造を行うとともに社務執行は将軍家代々の祈祷もつとめた。豊臣秀吉は母大政所の病気平癒を祈願し、焼失していた大塔を再建するとともに、一万石を寄進し戦国期に荒廃した当社の再興が進んだ。江戸時代には徳川家も当社をあつく信仰し、家康は社領を寄進、家綱は現存する社殿を造営、数多くの神宝類も寄進した。
明治4年(1872)に官幣中社に列格、大正4年(1915)には官幣大社に昇格した。
https://www.yasaka-jinja.or.jp/about/
主な祭事
- 1月1日 白朮祭 (おけら参り)
- 2月2日-3日 節分祭
- 3月17日 祈年祭(大祭)
- 6月15日 例祭(大祭)
- 7月1日-31日 祇園祭
- 9月~10月 中秋の名月の日 観月祭
- 11月3日(文化の日)舞楽奉納
- 11月23日 新嘗祭(大祭)
- その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。
八坂神社の概要
社格
創建・主祭神など
創建 | (伝)斉明天皇2年(656年) |
主祭神 | 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神 |
神事 | 例祭 6月15日 主な神事 祇園祭(7月)、白朮祭(1月1日) |
本殿の様式 | 祇園造(八坂造) |
公式ページ
現在の祭神
主祭神
- 中御座:素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
- 東御座:櫛稲田姫命 (くし(い)なだひめのみこと)…素戔嗚尊の妻
- 西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ)…素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称
配神
- (東御座に同座) 神大市比売命、佐美良比売命…いずれも素戔嗚尊の妻
- (西御座に御座) 稲田宮主須賀之八耳神
明治時代の神仏判然令以前の主祭神。
- 中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)…祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同一視された
- 東の座:八王子 (はちおうじ)…八王子は牛頭天王の8人の王子であり、スサノオノミコトの8人の子供と同一視された
- 西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)…頗梨采女が牛頭天王の后神のため、素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。
八坂神社の見どころ
摂社
疫神社
祭神:蘇民将来
西楼門をくぐってすぐのところにあります。祇園祭に最終日7月31日に夏越祓(なごしのはらえ)を行われます。
夏越祓では鳥居に大きな茅の輪を設け、それをくぐって無病息災を祈って「蘇民将来之子孫也」の護符を頂きます。
(蘇民将来の逸話は下の方にあります)
悪王子社
祭神:素戔嗚尊の荒魂
京都市下京区に「悪王子町」と「元悪王子町」と名の付く町があります。
昔は町内に祀られていました。「悪」には「強力」という意味合いがあります。強い神ということです。
明治10年(1877年)に八坂神社で祀られる様になりました。
冠者殿社
祭神:天照大御神との誓約時の素戔嗚尊の御気
境外摂社で、四条御旅所の西側に鎮座しています。
末社
北向蛭子社
祭神:事代主神
大神宮
祭神:天照大神・豊受大神
大神宮社の傍にある御神水です。
美御前社
祭神:宗像三女神(多岐理比売命・多岐津比売命・市杵島比売命)
大国主社
祭神:大国主神・事代主神・少彦名命
玉光稲荷社
祭神:宇迦之御魂神。玉光稲荷社権殿の「命婦稲荷社」と二社で一体とされています。
日吉社
祭神:大山咋神・大物主神
刃物神社
祭神:天目一箇神
厳島社
祭神:市杵島比売命
太田社
祭神:猿田彦命・宇受女命
大年社
祭神:大年社・巷社神
十社
多賀社(伊邪那岐命)、熊野社(伊邪那美命)、白山社(白山比咩命)、愛宕社(伊邪那美命、火産霊命)、金峰社(金山彦命、磐長比売命)、春日社(天児屋根命、武甕槌神、斎主神、比売神)、香取社(経津主神)、諏訪社(健御名方神)、松尾社(大山咋命)、阿蘇社(健磐龍神、阿蘇都比咩命、速甕玉命)の十社
写真の奥が十社。
五社
八幡社(応神天皇)、竈神社(奥津日子神、奥津比売神)、風神社(天御柱命、国御柱命)、天神社(少彦名命)、水神社(高龗神、罔象女神)の五社。
境外社(御旅所)
- 四条御旅所…祇園祭の7月17日から24日に神輿三基が安置されます。
- 三条御供社(ごくうしゃ)…7月24日の還幸祭の折に神輿三基が安置されます。
- 大政所御旅所旧跡…7月15日に長刀鉾の長刀が収められ、7月16日に神剣拝戴の儀が行なわれます。
祖霊社
楼門
応仁の乱ののち、明応6年(1497年)に再建。西楼門とも称します。本殿の西方、四条通りの突き当たり。切妻造の楼門(2階建て門)。
蜘蛛の巣が張ることが無く、雨だれの跡も付かないと言われています。
本殿
承応3年(1654年)に再建。平成14年(2002年)に修復。
南を向いています。本殿と拝殿が1つの入母屋屋根で覆われており、「祇園造」と呼ばれます。
本殿の下には龍穴があり、穴は神泉苑や東寺までつながっているという言い伝えがあります。古くは密教(=東密)と深い関係にあったのでしょうか?
末社蛭子社社殿
正保3年(1646年)
石鳥居
本殿南側の正面入口。正保3年(1646年)建立。寛文2年(1662年)の地震で倒壊後、同6年(1666年)に再建。
美術工芸品
- 木造狛犬
- 太刀…平安末期の豊後(大分県)の刀工・行平(ゆきひら)の作
- 太刀3口…江戸時代の刀工・出羽大掾国路(でわだいじょうくにみち)の作
- 鉦鼓(長承三年銘)1口(附 鉦鼓(無銘)1口)
- 紙本着色祇園社絵図
- 祇園執行日記9冊(附 祇園社記等59冊)
- 八坂神社文書(2,205通)89巻、40冊、1帖、1通
- 算額…元禄4年(1691年)長谷川鄰完奉納。絵馬堂にて復元額を展示
絵馬堂
西楼門をくぐって右手にある灯篭
舞殿
舞殿には料亭などが奉納した提灯がぶら下がっています。
社務所
神馬舎
忠盛燈籠
斎館
能舞台
祇園信仰(ぎおんしんこう)
牛頭天王・スサノオノミコトに対する神仏習合の信仰。行疫神(ぎょうえきしん)である牛頭天王に対する信仰で、天王信仰の一つ。
京都府の八坂神社(祇園社)もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とします。
牛頭天王は、貞観11(869年)清和天皇の時代に東山の感神院(かんしんいん)(=現在の八坂神社)に勧請されました。
牛頭天王は、各地に勧請されており、兵庫県の広峰天王、愛知県の津島天王(=津島天王祭)が有名です。
牛頭天王は仏教的な陰陽道の神で、祇園精舎の守護神とされます。
仏教とは関係なく、日本独特の神です。日本の神が勝手にインドの祇園精舎を守護しています。
ちなみに、平家物語の有名な「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり」の一説ですが、祇園精舎には鐘がなかったそうです。
牛頭天王は中国で道教の影響を受け、日本で神道の神であるスサノオノミコトと習合しました。
習合したのは、牛頭天王もスサノオノミコトも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためです。本地仏は薬師如来。明治の神仏分離以降は、スサノオノミコトを祭神とする神道の信仰となっています。
牛頭天王とスサノオノミコトには疫病をはらう力があると信じられてきました。
昔の人々が恐れていたのは疫病でした。そして、疫病が流行するのは死霊や怨霊が疫神(えきじん)となるからだと信じていました。
スサノオノミコトが疫神とされたのは、記紀にあるように、スサノオノミコトが罪を犯して根の国へ追放されたからです。
スサノオノミコトを祀ることによって疫病から免れると信じられるようになりました。
疫神は災禍をもたらす神でしたが、祀られることによって疫病を治める祓(はらい)神になったのです。
平安時代、伝染病が流行したとき、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとした祭礼が祇園信仰の原形とされます。
祭礼を祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)や単に御霊会といい、10世紀後半に祇園社(現在の八坂神社)で執り行われるようになりました。御霊とは死霊のことです。
祇園御霊会は疫病の発生しやすくなる時期に行われ、祇園社の6月の例祭として定着し、天延3年には朝廷の奉幣を受ける祭となりました。
この時期については、「テーマ:平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)」にまとめています。
山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であると同時に、行疫神の厄を分散させるという意味があります。
祇園信仰は中世までには全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られました。祭礼として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになりました。
明治になり、神仏分離令によって神社での仏式の行事が禁止されました。仏教語を使用することが禁止されたため、「牛頭天王」「祇園」が神社に使えなくなります。牛頭天王が日本独特の神であるのですが…。
祇園社・牛頭天王社はスサノオノミコトを祀る神社となり、総本社である京都府の祇園社は、鎮座地の地名から八坂神社に改称しました。
全国の他の神社は、京都府の八坂神社同様に八坂神社と改称するか、祭神から素盞嗚神社・素戔嗚神社、かつての社名から祇園神社などに改称しました。
牛頭天王およびスサノオノミコトに対する信仰のうち、津島神社(愛知県津島市)を中心に東海地方に広まった信仰を津島信仰(つしましんこう)と呼びます。
スサノオノミコトに対する信仰には、氷川神社(埼玉県さいたま市)を中心とした関東地方の氷川信仰もありますが、牛頭天王信仰と習合していません。
祇園信仰と同じく、信仰による御霊会として、北野御霊会と稲荷御霊会があります。
菅原道真の死後、禍が続発したので、菅原道真の祟りを鎮めるために始まったのが北野祭です。
生物を犠牲にして人は生きるため、食物霊を御霊として祀るのが稲荷祭です。
粽(ちまき)「蘇民将来子孫也」の護符
祇園祭の時期にしか頒布しないということです。
八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
https://www.yasaka-jinja.or.jp/event/gion.html
蘇民将来は「備後風土記」に見える説話の主人公。
神に宿を貸した善行により茅の輪(ちのわ)の法を教えられ、子孫に至るまで災厄を免れることを約束された説話上の人物。
貧しい兄と裕福な弟とがおり、旅人(=スサノオ)が一夜の宿を求めたとき、弟の巨旦(こたん)将来は応ぜず、兄の蘇民将来は宿を貸し粟飯などでもてなしました。
旅人はお礼に「蘇民将来之子孫」といって茅の輪を腰に着けていれば厄病を免れることができると教えました。その後、弟の子孫は疫病で滅び、兄・蘇民将来の子孫は疫病を免れたといいます。
旅人は8年後に再びやってきて、その際に茅の輪を伝えたともいわれます。時点が異なる話もあるようです。
この説話が現在各地の神社などで行なわれる茅(ち)の輪くぐり行事の由来になっています。
神(=スサノオ)は牛頭天王と習合しており、八角柱の木片に「蘇民将来之子孫也」などと書いた護符を蘇民将来といっています。
護符は、国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されています。八坂神社の場合は粽(ちまき)。