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甲府城の訪城記-歴史や見どころは?(別名:舞鶴城(まいづる(ぶかく)じょう)(山梨県甲府市)[国の史跡]

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躑躅ヶ崎館/武田神社からダラダラと坂を下っていき、甲府駅のそばにあるのが甲府城です。遺跡は線路を隔てて2つに分かれています。

甲府盆地のど真ん中にあるイメージで、天守台からの光景は素晴らしかったです。

別名を舞鶴城といいますが、白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味でそう呼ばれたそうです。

現在は舞鶴城公園として開放されています。

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甲府城の歴史

武田氏滅亡後には甲斐支配の拠点として、平山城として整備されました。

国の史跡に指定されており、日本100名城(25番)に選定されました。

江戸時代の初期は幕府直轄領、その次には甲府藩が治め、享保年間に再び直轄領とされ、甲府勤番時代を通じて統治の拠点となりました。

宝永元年(1704年)に甲府藩主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の後継者になります。後の第6代将軍・徳川家宣です。

甲府城は、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の居城として与えられました。

この後、甲斐善光寺へ向かいました。

甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。

天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

甲府城は明治に入り、徳川時代の面影を大幅に失うこととなり、残された城跡が明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。

昭和5年(1930)には、甲府中学校の移転に伴い、旧追手役所跡にあった県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時にその西側、南側の堀は完全に埋められました。その後、武徳殿(昭和8年)、恩賜林記念館(昭和28年)、県民会館(昭和32年)、議員会館(昭和41年)などが公園内に設置されました。

昭和39年(1964)には都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました。

https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/kofujyou.html

甲府城の見どころ

天守台

天守台はありますが、天守が建てられていたかは不明だそうです。

また、一つの石を二つに割った「兄弟石」がいくつかあるそうです。

天守台

お城が建てられた当時の姿がそのまま残っています。

天守台はお城のシンボルとしての天守閣が建てられる場所です。

甲府城 案内板

天守台からの光景。遠方に富士山が見えます。見えにくいかもしれませんね…。

本丸櫓跡

本丸櫓跡

城内の中心に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。

甲府城 案内板

鉄門・銅門跡(くろがねもん・あかがねもんあと)

内松陰門

暗渠(あんきょ)

水をうまく排水するためのものだそうです。抜け穴ではないそうです。

城門

城の風景

線路を隔てて反対側の城跡

場所と地図

〒400-0031 山梨県甲府市丸の内1-5-4