丸目蔵人佐長恵(まるめ・くらんどのすけ・ながよし)はタイ捨(たいしゃ)流の創始者として知られます。
通称は蔵人佐(くらんどのすけ)、または石見守。丸目蔵人(まるめ・くらんど)の名で広く知られます。
本姓は藤原。号は徹斎。晩年は剃髪して石見入道徹斎を名乗りました。
タイ捨流
タイ捨流の「タイ」には、「体・待・対・太」などの漢字が当てはまりますが、あえてカタカタにしています。
- 「体」とすれば体を捨てるという意味に限定される
- 「待」とすれば待つを捨てるという意味に限定される
- 「対」とすれば対峙を捨てるという意味に限定される
- 「太」とすれば自性、つまりは本性を捨てるという意味に限定される
「タイ捨」とは、これらのすべての言葉にとらわれないことを意味しています。
上泉伊勢守信綱の四天王
さて、丸目蔵人佐長恵は上泉伊勢守信綱の弟子として知られます。
上泉伊勢守信綱は「新陰流」の創始者で、他の弟子で有名なのは、柳生宗厳などです。
つまり「タイ捨流」は新陰流の流れを汲む流派です。
タイ捨は甲冑を着た武将を倒す刀術として実戦向きでしたが、これにさらに磨きをかけ、示現流を生み出したのが東郷藤兵衛肥前守重位です。
略歴
戦国時代の武人。天文9年(1540)に九州の肥後国八代郡八代(熊本県八代市)に生まれました。当時、八代は相良氏の領国。
父は丸目与三右衛門尉(元は山本姓)、母は赤池伊豆の娘とされます。
初陣で武功を挙げ、父と共に「丸目」の名字を与えられました。
弘治2年(1556年)。肥後天草郡の領主の本渡城主・天草伊豆守の元で兵法の修行を行いましたた。
永禄元年(1558年)に上洛。上泉伊勢守信綱に新陰流を学び、四天王(疋田景兼、神後宗治、奥山公重、丸目長恵)の一人となりました。
永禄7年(1564)。足利13代将軍義輝の前で上泉が兵法を上覧したとき、師の上泉の相手として打太刀を務め、「丸目の打ち太刀、天下の重宝」と褒めたたえられ、感状を受けています。
正親町天皇の前でも同様に兵法を上覧しています。
この時期を前後して、禁廷北面の士とされていますが、宮仕した事実は確認されていません。
丸目蔵人佐長恵はいったん、帰郷し、相良家で新陰流の指南を行いました。
永禄9年(1566年)。弟子の丸目寿斎、丸目喜兵衛、木野九郎右衛門を伴い再び上洛。
師の上泉伊勢守信綱は京にいませんでした。
丸目蔵人佐長恵は愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げて、諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑みました。
しかし、誰も名乗り出ず、勝負することなく帰国しました。
永禄10年(1567年)。「兵法天下一」の高札の件を知った上泉は、上泉伊勢守信綱の名で印可状(免許皆伝)を与えました。一説には永禄12年(1569)に目録を授けられたといいます。
この時期、相良家に仕官しています。
永禄12年(1569年)。薩摩の島津家久が大口城を攻めてきた際に、相良家は丸目蔵人佐長恵の策に従って大口城が落城してしまいます。
そのため、丸目蔵人佐長恵は相良義陽から逼塞の処罰を受け、武将として出世することはありませんでした。
丸目蔵人佐長恵は兵法修行に専心し、師の上泉伊勢守信綱より、西国での新陰流の教授を任されました。
その後、弟子の一人が上泉伊勢守信綱の元で修行を行い、ある太刀筋を伝授されます。
上泉伊勢守信綱は、その太刀筋を丸目蔵人佐長恵に伝えて欲しいと託しました。
弟子から教わるのを良しとしなかった丸目蔵人佐長恵は、上泉伊勢守信綱に直接の指導を仰ごうとしたらしいです。
しかし、すでに亡くなっており、指導はあおげませんでした。
自らの鍛錬により、数年後に「タイ捨流」を開流したといわれています。
天正15年(1587年)。再び相良氏に仕えた。タイ捨流の剣術指南として、117石を与えられました。
タイ捨流は九州一円に広まり、筑後山下の城主・蒲池鑑廣や柳川城主・立花宗茂に教えています。授けた免状は今も保存されています。
また、薩摩は示現流を採用する前はタイ捨流でした。
晩年には徹斎と号しました。
切原野(熊本県球磨郡錦町)に隠棲して、村人とともに開墾に従事しながら隠居生活を送りました。田畑や水路や植林地は残って今に活用されいます。
元和4年(1618)、京都からローマに送ったイエズス会宣教師の報告書に、丸目蔵人佐の風貌が描かれています。
寛永6年(1629)没。89歳。法名は雲山春龍居士。墓は熊本県球磨郡錦町切原野堂山。
逸話
徳川幕府の指南役柳生但馬守宗矩に試合を挑み「竜虎相搏つは非、天下を二分せん」と説得されました。
巌流島決闘のあとで訪れた宮本武蔵に、タイ捨流二刀の型を伝授しました。