室町時代と安土桃山時代約270年の年表です。調べ物や勉強にお役に立てば幸いです。
室町時代は足利将軍家十五代が治め、前半は南北朝時代、後半は戦国時代と動乱の時代でした。この動乱を収め、織田信長、豊臣秀吉による安土桃山時代へ続きます。
- 神代年表(天地開闢~500年頃)
- 飛鳥時代・奈良時代年表(500頃~794年)
- 平安時代年表(794年~1185年)
- 鎌倉時代年表(1185年~1333年)
- 室町時代・安土桃山時代年表(1336年~1603年) 本ページ
- 江戸時代年表(1603年~1868年)
- 明治時代・大正時代・昭和時代年表(1868年~1988年)
簡単な年表/出来事
建武の新政
- 1333(大覚寺統:元弘3)(持明院統:正慶2) 鎌倉幕府滅亡
- 1334(元弘4/建武1) 建武の新政
- 1335(建武2) 中先代の乱
- 1336(北朝:建武3)(南朝:建武3/延元1) 南北朝時代の始まり
南北朝時代
- 1338(北朝:建武5/暦応1)(南朝:延元3) 足利尊氏が征夷大将軍となる
- 1350(北朝:貞和6/観応1)(南朝:正平4) 観応の擾乱
- 1352(北朝:観応3/文和1)(南朝:正平6) 観応の半済令
- 1367(北朝:貞治6)(南朝:正平21) 高麗の使者が来て倭寇の禁止を求める
- 1369(北朝:応安2)(南朝:正平23) 明の使者が来日、倭寇の禁止を求める
- 1378(北朝:永和4)(南朝:天授4) 足利義満が京都室町通に花の御所を造営
- 1379(北朝:永和5/康暦1)(南朝:天授5) 康暦の政変
- 1389(北朝:嘉慶3/康応1)(南朝:元中6) 土岐康行の乱
- 1391(北朝:明徳2)(南朝:元中8) 明徳の乱
- 1392(北朝:明徳3)(南朝:元中9) 南北両朝が合一(明徳の和約)
幕府安定期
- 1394(明徳5/応永1) 足利義満が太政大臣となる
- 1398(応永5) 三管領・四職の制を整備
- 1399(応永6) 応永の乱
- 1404(応永11) 勘合貿易の開始
- 1416(応永23) 上杉禅秀の乱
- 1419(応永26) 応永の外寇
- 1428(応永35/正長1) 正長の土一揆
- 1429(正長1/永享1) 播磨の土一揆
- 1438(永享10) 永享の乱
- 1441(永享13/嘉吉1) 嘉吉の乱
- 1454(享徳3) 享徳の乱
- 1457(康正3/長禄1) コシャマインの戦い
- 1466(寛正7/文正1) 文正の政変
戦国時代 (応仁・文明の乱 1467-1478)
- 1467(文正2/応仁1) 応仁・文明の乱がおこる
- 1476(文明8) 長尾景春の乱
- 1477(文明9) 応仁・文明の乱が終結
- 1483(文明15) 都鄙合体により幕府と足利成氏と和睦
- 1485(文明17) 山城の国一揆
- 1488(長享2) 加賀の一向一揆
- 1489(長享2/延徳1) 足利義政が銀閣寺を建立
戦国時代 (明応の政変~関東・奥羽惣無事令)
- 1493(明応2) 明応の政変
- 1507(永正4) 永正の錯乱/長享の乱の終結
- 1510(永正7) 三浦の乱
- 1523(大永3) 寧波の乱
- 1543(天文12) 鉄砲の伝来
- 1549(天文18) キリスト教伝来
- 1560(永禄3) 桶狭間の戦
- 1565(永禄8) 永禄の変
- 1568(永禄11) 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
織豊時代(安土桃山時代)
- 1573(元亀4/天正1) 室町幕府滅亡
- 1582(天正10) 本能寺の変
- 1588(天正16) 刀狩令
- 1590(天正18) 豊臣秀吉、全国統一
- 1592(天正19/文禄1) 文禄の役
- 1597(慶長2) 慶長の役
- 1600(慶長5) 関ヶ原の戦い
- 1603(慶長8) 徳川家康が征夷大将軍となる
建武の新政 1333–1336
1333(大覚寺統:元弘3)(持明院統:正慶2) 鎌倉幕府滅亡
- 記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所を設置する
- 後醍醐天皇は隠岐を脱出、名和長年を頼る
- 後醍醐天皇が光厳天皇を廃し京都に帰る
- 護良親王(後醍醐天皇の子)が征夷大将軍となる
- 足利尊氏が六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻め鎌倉幕府が滅びる
1334(元弘4/建武1) 建武の新政
1335(建武2) 中先代の乱
- 延元の乱。足利尊氏が後醍醐天皇の政権に対して挙兵。
- 足利尊氏が北条時行を破り鎌倉に入り反旗を翻す。
- 箱根・竹ノ下の戦い。足利尊氏が新田義貞を破る。
- 中先代の乱。北条時行が鎌倉を攻め、足利直義は護良親王を殺して京都へ逃げる。北条時行は鎌倉幕府の再興を果たしたが、足利尊氏によって20日間で滅びる。
1336(北朝:建武3)(南朝:建武3/延元1) 南北朝時代の始まり
- 後醍醐天皇は吉野に移る(南北朝時代の始まり)
- 光明天皇が即位する(北朝)
- 足利尊氏が入京する
- 後醍醐天皇は比叡山へ
- 足利尊氏は京都に入り光明天皇を擁立
- 足利尊氏が室町幕府を開き、建武式目を定める
- 湊川の戦い。足利尊氏を迎え撃ち楠木正成は湊川で戦死。
- 多々良浜の戦い。足利尊氏は菊池武敏を破り九州を固める。
- 豊島河原合戦。足利尊氏と新田義貞・北畠顕家の戦い。足利尊氏は九州へ敗走。
- 2019年阪大:足利尊氏が発表した建武式目は、いかなる政治状況の下で定められ、北条泰時が制定した御成敗式目とどのように性格が異なるのか、また、室町幕府は御成敗式目をどのように扱ったのかを問われました。
- 2005年阪大:南北朝の内乱が日本の中世に与えた影響について問われました。
- 2003年東大:南北朝内乱当時の武士の行動の特徴と、南朝は政権としては弱体でしたが南北朝内乱は全国的に展開し長期化した理由が問われました。
- 1991年東大:後醍醐天皇が政治改革でめざしたものと、北畠親房が天皇の政治に対して、どのような立場からどのような批判をもっていたが問われました。
南北朝時代 1336–1392
1336(北朝:建武3)(南朝:延元1)
- 後醍醐天皇は吉野へ逃れる(南朝)
- ●足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬
1337(北朝:建武4)(南朝:延元2)
- ●足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬
初代将軍 足利尊氏 1338-1358
1338(北朝:建武5/暦応1)(南朝:延元3) 足利尊氏が征夷大将軍となる
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:上杉憲顕
- 足利尊氏が征夷大将軍になり京都に室町幕府を開く
- 石津の戦い。和泉国。北畠顕家(南朝)と高師直(北朝)の戦い。北朝の勝利。北畠顕家戦死。
- 藤島の戦い。越前国。新田義貞(南朝)と斯波高経(北朝)の戦い。北朝の勝利。新田義貞戦死。
1339(北朝:暦応2)(南朝:延元4)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬
- 義良親王が吉野に帰り即位、後村上天皇となる
- 尊氏が暦応寺(翌年に天龍寺と改称)を建立
- 後醍醐天皇崩御
- 北畠親房「神皇正統記」
- 1990年一橋:13世紀の慈円「愚管抄」、14世紀の北畠親房「神皇正統記」、18世紀の新井白石「読史余論」のそれぞれの歴史のとらえ方の特徴について、その時代の思潮や政治動向と関わらせて問われました。
1340(北朝:暦応3)(南朝:延元5/興国1)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬・上杉憲顕
1341(北朝:暦応4)(南朝:興国2)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬・上杉憲顕
1342(北朝:暦応5/康永1)(南朝:興国3)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬・上杉憲顕
- 天龍寺造営費の獲得の為、天龍寺船を元(モンゴル)に渡航(貿易)
1343(北朝:康永2)(南朝:興国4)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬・上杉憲顕
1344(北朝:康永3)(南朝:興国5)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:高師冬・上杉憲顕・高重茂
1345(北朝:康永4/貞和1)(南朝:興国6)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:上杉憲顕・高重茂
1346(北朝:貞和2)(南朝:興国7)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:上杉憲顕・高重茂
1347(北朝:貞和3)(南朝:正平1)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:上杉憲顕・高重茂
1348(北朝:貞和4)(南朝:正平2)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮 ○関東管領:上杉憲顕・高重茂
- 四條畷の戦い。楠木正行と高師直との河内四条畷での戦。楠木正行戦死。
- 崇光天皇即位(北朝)
1349(北朝:貞和5)(南朝:正平3)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直⇒高師世⇒高師直
- ◎(鎌倉):足利義詮⇒鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:上杉憲顕・高重茂
- 関東の統治機関である鎌倉府ができ、鎌倉府の初代・鎌倉公方に足利基氏がなる。補佐役として関東管領(主に上杉氏一族の世襲)が置かれる。
- 2016年阪大:室町幕府は東国を支配する地方機関を関東に設置しました。京都の将軍権力との関係に留意しつつ、その機関はどのようなものであり、いかなる展開過程をたどったのか問われました。
1350(北朝:貞和6/観応1)(南朝:正平4) 観応の擾乱
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:高師冬・上杉憲顕
- 観応の擾乱…足利政権の内乱。足利直義・高師直が死去。
- 尊氏の子足利直冬が九州で挙兵、尊氏は追討のため出京
1351(北朝:観応2)(南朝:正平5)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:高師直⇒仁木頼章
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:高師冬・上杉憲顕
- 足利尊氏・義詮が一時的に南朝方に降伏
- 北朝は崇光天皇を廃す
1352(北朝:観応3/文和1)(南朝:正平6) 観応の半済令
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:仁木頼章
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:空位
- 後光厳天皇即位(北朝)
- 観応の半済令。戦乱の為、守護が年貢の半分を徴発可能になり、守護の支配力が強まり守護大名と発展する。
1353(北朝:文和2)(南朝:正平7)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:仁木頼章
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
1354(北朝:文和3)(南朝:正平8)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:仁木頼章
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
- 北畠親房が亡くなる。
1355(北朝:文和4)(南朝:正平9)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:仁木頼章
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
1356(北朝:文和5/延文1)(南朝:正平10)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:仁木頼章
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
1357(北朝:延文2)(南朝:正平11)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:仁木頼章
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
1358(北朝:延文3)(南朝:正平12)
- ●将軍:足利尊氏 〇執事:仁木頼章⇒細川清氏
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
- 足利尊氏が亡くなる。
二代将軍 足利義詮 1359-1367
1359(北朝:延文4)(南朝:正平13)
- ●将軍:足利義詮 〇執事:細川清氏
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
- 筑後川の戦い。懐良親王(南朝)と少弐頼尚(北朝)の戦い(南朝の勝利で九州地方は南朝が支配)【日本三大合戦の一つ】
1360(北朝:延文5)(南朝:正平14)
- ●将軍:足利義詮 〇執事:細川清氏
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
1361(北朝:延文6/康安1)(南朝:正平15)
- ●将軍:足利義詮 〇執事:細川清氏
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:畠山国清
1362(北朝:康安2/貞治1)(南朝:正平16)
- ●将軍:足利義詮 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:高師有・上杉憲顕
1363(北朝:貞治2)(南朝:正平17)
- ●将軍:足利義詮 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:高師有・上杉左近将監
1364(北朝:貞治3)(南朝:正平18)
- ●将軍:足利義詮 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:空位
1365(北朝:貞治4)(南朝:正平19)
- ●将軍:足利義詮 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:空位
1366(北朝:貞治5)(南朝:正平20)
- ●将軍:足利義詮 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利基氏 ○関東管領:上杉憲顕
1367(北朝:貞治6)(南朝:正平21) 高麗の使者が来て倭寇の禁止を求める
- ●将軍:足利義詮 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利基氏⇒足利氏満 ○関東管領:上杉憲顕
- 鎌倉公方・足利基氏が亡くなる⇒足利氏満が鎌倉公方を継ぐ
- 高麗の使者が来て倭寇の禁止を求める
- 南北朝和睦の話し合いが決裂
三代将軍 足利義満 1368-1395
- 2012年阪大:足利義満は花の御所や北山殿を拠点にさまざまな政策を展開して政治的な安定を図りました。足利義満が行った政治のうち、朝廷や外交にかかわる政策について問われました。
- 2011年東大:室町幕府の運営や重要な政務の決定に参画した守護には、中央における職制上の地位にもふれながら、どのような共通点がみられるか、また、今川・上杉・大内の各氏が、在京を免除されることが多かったのはなぜか、義持の時期における安定は、足利義満の守護に対する施策によって準備された面がありますが、その施策の内容を問われました。
- 2010年京大:足利義満の時代はどのような時代であったかをいくつかの側面から問われました。
1368(北朝:貞治7/応安1)(南朝:正平22)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲顕・上杉能憲・上杉朝房
- 足利義満が3代目将軍となる
- 長慶天皇即位
- 応安の半済令。幕府が皇室領以外の荘園に半済を行う。
1369(北朝:応安2)(南朝:正平23) 明の使者が来日、倭寇の禁止を求める
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲・上杉朝房
- 明の使者が来日、倭寇の禁止を求める
1370(北朝:応安3)(南朝:正平24/建徳1)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲・上杉朝房
1371(北朝:応安4)(南朝:建徳2)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲
- 後円融天皇即位(北朝)
1372(北朝:応安5)(南朝:建徳3/文中1)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲
1373(北朝:応安6)(南朝:文中2)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲
1374(北朝:応安7)(南朝:文中3)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲
1375(北朝:応安8/永和1)(南朝:文中4/天授1)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲
1376(北朝:永和2)(南朝:天授2)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲
1377(北朝:永和3)(南朝:天授3)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲・上杉憲春
1378(北朝:永和4)(南朝:天授4) 足利義満が京都室町通に花の御所を造営
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉能憲・上杉憲春
- 足利義満が京都室町通に花の御所を造営
1379(北朝:永和5/康暦1)(南朝:天授5) 康暦の政変
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼之⇒斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲春・上杉憲方
- 康暦の政変。斯波氏が細川頼之を失脚させる。
1380(北朝:康暦2)(南朝:天授6)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
1381(北朝:康暦3/永徳1)(南朝:天授7/弘和1)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
1382(北朝:永徳2)(南朝:弘和2)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
- 後小松天皇即位
1383(北朝:永徳3)(南朝:弘和3)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
- 後亀山天皇即位
1384(北朝:永徳4/至徳1)(南朝:弘和4/元中1)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
- 中条兵庫頭長秀(剣豪)が亡くなる。(近世剣術諸流の三大源流の一つ念流に連なる、中条流平法の祖)
1385(北朝:至徳2)(南朝:元中2)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
1386(北朝:至徳3)(南朝:元中3)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
1387(北朝:至徳4/嘉慶1)(南朝:元中4)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
1388(北朝:嘉慶2)(南朝:元中5)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
1389(北朝:嘉慶3/康応1)(南朝:元中6) 土岐康行の乱
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
- 土岐康行の乱。足利義満が土岐氏を陥れる謀略で土岐康行が敗死。土岐氏の守護領国は3国から1国になる。
1390(北朝:康応2/明徳1)(南朝:元中7)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
1391(北朝:明徳2)(南朝:元中8) 明徳の乱
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将⇒細川頼元
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方
- 足利義満が細川頼之を呼び戻す
- 明徳の乱。足利義満が山名氏を陥れる謀略。山名氏清、山名満幸を滅ぼす。山名氏の守護領国は11国から3国に激減する。
1392(北朝:明徳3)(南朝:元中9) 南北両朝が合一(明徳の和約)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼元
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲方・上杉憲孝
- 明徳の和約。後亀山天皇(南朝)が吉野から京都に帰り三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)を後小松天皇(北朝)に譲り南北両朝が合一。
1393(明徳4)
- ●将軍:足利義満 ○管領:細川頼元⇒斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲孝
幕府安定期 1393–1467
1394(明徳5/応永1) 足利義満が太政大臣となる
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉憲孝
- 足利義満が太政大臣となる
1395(応永2)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉朝宗
1396(応永3)
- ●将軍:足利義満 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉朝宗
四代将軍 足利義持 1395-1423
1397(応永4)
- ●将軍:足利義持 ○管領:斯波義将
- ◎鎌倉公方:足利氏満 ○関東管領:上杉朝宗
- 足利義満が北山に金閣寺(鹿苑寺)を建立
1398(応永5) 三管領・四職の制を整備
- ●将軍:足利義持 ○管領:斯波義将⇒畠山基国
- ◎鎌倉公方:足利氏満⇒足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗
- 幕府、三管領(細川・斯波・畠山)・四職(山名・一色・京極・赤松)の制を整備
1399(応永6) 応永の乱
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山基国
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗
- 応永の乱。足利義満が大内氏を陥れる謀略。大内義弘を滅ぼす。大内氏の守護領国は6国から2国になる。その後、大内盛見によって4国にまで拡大。
1400(応永7)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山基国
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗
- 世阿弥元清の「風姿花伝」ができ、この頃能楽が盛んになる
- 大塔合戦。信濃の支配権を巡る争い。信濃守護・小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主と中小国人領主の連合軍(大文字一揆)を相手に善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗。
1401(応永8)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山基国
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗
- 明(中国)と国交の開始。明からの国書では足利義満が日本国王。
- 1989年一橋:近代以前の日本は、東アジア社会の一員として、他の地域と相互に影響を及ぼしあいながら、歴史を展開させてきました。次に掲げた年には、日本の対外関係史上重要な出来事が起きています。そのそれぞれについて、内外の歴史的背景と日本社会への影響を含めて説明が求められました。(1)607年、(2)894年、(3)1401年、(4)1543年
1402(応永9)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山基国
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗
1403(応永10)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山基国
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗
1404(応永11) 勘合貿易の開始
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山基国
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗
- 勘合貿易の開始。明との貿易で倭寇対策に勘合を使用(輸入品は銅銭(永楽通宝)・織物・書物など、輸出品は硫黄・銅・刀剣などで、治安対策として倭寇の取締りを強化。
1405(応永12)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山基国⇒斯波義重
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉朝宗・上杉憲定
1406(応永13)
- ●将軍:足利義持 ○管領:斯波義重
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉憲定
1407(応永14)
- ●将軍:足利義持 ○管領:斯波義重
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉憲定
1408(応永15)
- ●将軍:足利義持 ○管領:斯波義重
- ◎鎌倉公方:足利満兼 ○関東管領:上杉憲定
- 足利義満が亡くなる。
1409(応永16)
- ●将軍:足利義持 ○管領:斯波義重⇒斯波義将⇒斯波義淳
- ◎鎌倉公方:足利満兼⇒足利持氏 ○関東管領:上杉憲定
1410(応永17)
- ●将軍:足利義持 ○管領:斯波義淳⇒畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲定
1411(応永18)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲定・上杉氏憲(禅秀)
- 明と国交一時断絶
1412(応永19)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山満家⇒細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉氏憲(禅秀)
- 称光天皇即位
1413(応永20)
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉氏憲(禅秀)
1414(応永21)
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉氏憲(禅秀)
1415(応永22)
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉氏憲(禅秀)・上杉憲基
1416(応永23) 上杉禅秀の乱
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲基
- 上杉禅秀の乱。関東管領を巡る上杉氏の反乱、元関東管領の上杉禅秀らが鎌倉公方足利持氏に反抗し鎌倉を攻めるが敗北。
1417(応永24)
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲基
1418(応永25)
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲基
1419(応永26) 応永の外寇
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 応永の外寇。李氏朝鮮による対馬侵攻日本の勝利。
1420(応永27)
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1421(応永28)
- ●将軍:足利義持 ○管領:細川満元⇒畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1422(応永29)
- ●将軍:足利義持 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
五代将軍 足利義量 1423-1425
1423(応永30)
- ●将軍:足利義量 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1424(応永31)
- ●将軍:足利義量 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1425(応永32)
- ●将軍:足利義量⇒空位 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
空位 1425-1428
1426(応永33)
- ●将軍:空位 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1427(応永34)
- ●将軍:空位 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 日本各地が大雨・洪水に襲われる
1428(応永35/正長1) 正長の土一揆
- ●将軍:空位 ○管領:畠山満家
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 後花園天皇即位
- 足利義持が亡くなる⇒足利義持の後継がくじ引きで決まる。足利義持の弟の僧義円(環俗して義宣)を迎え、足利義教になる。
- 正長の土一揆。全国的に飢饉・疫病が流行農民による初の一揆で私徳政が実施。
- 1986年東大:応永35年/正長元年(1428)将軍足利義持から足利義教に将軍が移り変わる際に、徳政が非常に広汎なものとなった背景の事情を3つ以上と、永仁の徳政令との相違点について問われました。
六代将軍 足利義教 1429-1441
1429(正長1/永享1) 播磨の土一揆
- ●将軍:足利義教 ○管領:畠山満家⇒斯波義淳
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 義宣は名を義教と改め、6代目将軍足利義教となる。足利義教の政治は万人恐怖と呼ばれた。
- 尚巴志が琉球王国を建国
- 播磨の土一揆。政治要求をした一揆鎮圧された。
1430(永享2)
- ●将軍:足利義教 ○管領:斯波義淳
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1431(永享3)
- ●将軍:足利義教 ○管領:斯波義淳
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1432(永享4)
- ●将軍:足利義教 ○管領:斯波義淳⇒細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 勘合貿易の復活
- 上杉憲実が足利学校を再興する
1433(永享5)
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1434(永享6)
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1435(永享7)
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 足利義教が比叡山を焼き討ちにする
1436(永享8)
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1437(永享9)
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 【京都】畠山持国の子・義夏(後の畠山義就)が生まれる。
- 冷夏・長雨が全国的に広がる
1438(永享10) 永享の乱
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
- 【関東】永享の乱。鎌倉公方(足利持氏)と関東管領(上杉憲実)との対立で足利義教が足利持氏を攻め、翌年自害させる。
- 飢饉が深刻化
1439(永享11)
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
1440(永享12)
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
- 【関東】結城合戦。結城氏朝が足利持氏の遺児を擁して挙兵幕府側の勝利。
1441(永享13/嘉吉1) 嘉吉の乱
- ●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
- 【京都】嘉吉の土一揆。京都周辺の一揆で幕府が徳政令を実施。
- 【京都】嘉吉の乱。赤松満祐が将軍足利義教を自身の邸に招き暗殺、管領細川持氏は義教の子義勝を将軍にし、赤松満祐を攻め自害させる、守護大名の山名氏などの勢力が拡大。
七代将軍 足利義勝 1442-1443
1442(嘉吉2)
- ●将軍:足利義勝 ○管領:細川持之⇒畠山持国
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
1443(嘉吉3)
- ●将軍:足利義勝 ○管領:畠山持国
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
- 【京都】禁闕の変。後南朝の組織による後花園天皇の襲撃事件。
空位
1444(嘉吉3/文安1)
- ●将軍:空位 ○管領:畠山持国
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
1445(文安2)
- ●将軍:空位 ○管領:畠山持国⇒細川勝元
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
1446(文安3)
- ●将軍:空位 ○管領:細川勝元
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
1447(文安4)
- ●将軍:空位 ○管領:細川勝元
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:上杉憲忠
1448(文安5)
- ●将軍:空位 ○管領:細川勝元
- ◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:上杉憲忠
- 【京都】畠山持国が弟・持富を廃嫡して義夏を家督につける。
八代将軍 足利義政 1449-1474
1449(文安6/宝徳1)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元⇒畠山持国
- ◎鎌倉公方:足利成氏 ○関東管領:上杉憲忠
- 【京都】足利義政が8代目将軍となる正室は日野富子
- 【関東】足利持氏の子成氏を鎌倉公方に任じる
1450(宝徳2)
- ●将軍:足利義政 ○管領:畠山持国
- ◎鎌倉公方:足利成氏 ○関東管領:上杉憲忠
1451(宝徳3)
- ●将軍:足利義政 ○管領:畠山持国
- ◎鎌倉公方:足利成氏 ○関東管領:上杉憲忠
1452(宝徳4/享徳1)
- ●将軍:足利義政 ○管領:畠山持国⇒細川勝元
- ◎鎌倉公方:足利成氏 ○関東管領:上杉憲忠
- 南太平洋シェパード諸島のクワエ火山噴火(日本の天候不順に影響を与える)
1453(享徳2)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎鎌倉公方:足利成氏 ○関東管領:上杉憲忠
1454(享徳3) 享徳の乱
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎鎌倉公方:足利成氏 ○関東管領:上杉憲忠
- 【京都】畠山氏内紛。畠山義就が家督継承者になる。
- 【関東】享徳の乱。鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺。成氏は古河城を本拠地とし古河公方と呼ばれた。
- 享徳の土一揆が起こり、幕府が徳政令を認める
- 2018年東大:室町幕府の財政にはどのような特徴があるか。その所在地との関係に注目して問われました。また、徳政令の発布が室町幕府に深刻な財政難をもたらしたのはなぜか。また、それを打開するために、幕府はどのような方策をとったかが問われました。
- 1989年京大:鎌倉・室町両幕府の徳政令の内容と徳政令が出された動機を比較することが問われました。また幕府によらない徳政についても問われました。
1455(享徳4/康正1)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎鎌倉公方⇒古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- 【京都】畠山持国が死去。畠山義就が畠山氏の家督を相続。
- 【関東】足利成氏が幕府の追討を受け、下総古河に移り、古河公方と呼ばれるようになる
1456(康正2)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
1457(康正3/長禄1) コシャマインの戦い
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉教朝・渋川義鏡
- 【北海道】コシャマインの戦い(アイヌ人と倭人の争い)
- 【関東】足利義政が弟の政知を伊豆堀越に派遣し、堀越公方と呼ばれるようになる
- 【関東】太田道灌が江戸城を築く
- 蓮如が本願寺八世の法主となる
1458(長禄2)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉教朝・渋川義鏡
- 【京都】足利義政は斯波氏の当主を斯波義敏から息子の松王丸(義寛)に替えた。
- 【関東】足利義政は異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送る。鎌倉に入ることが出来ず、堀越公方と称した。
1459(長禄3)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉教朝・渋川義鏡
- 【関東】太田庄の戦い。五十子の戦い。上杉房顕が陣没。上杉房定の次男・上杉顕定が後継者となった。
- 長禄・寛正の飢饉(長い干ばつと台風の到来による凶作が続く)
1460(長禄4/寛正1)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉教朝・渋川義鏡
- 【京都】足利義政によって畠山政長の畠山氏家督が認められ、義就が追放される。
- 長禄・寛正の飢饉(長い干ばつと台風の到来による凶作が続く)
1461(寛正2)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉教朝・渋川義鏡・上杉政憲
- 【京都】足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、斯波義廉に替えた。
- 【関東】岩松持国・次郎父子が従兄の岩松家純に謀殺される。
- 長禄・寛正の飢饉(長い干ばつと台風の到来による凶作が続く)
1462(寛正3)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:渋川義鏡・上杉政憲
1463(寛正4)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:渋川義鏡・上杉政憲
- 【京都】足利義政の母日野重子が没す。大赦により畠山義就、斯波義敏ら多数の者が赦免。
1464(寛正5)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元→畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:渋川義鏡・上杉政憲
- 【京都】義尋が還俗し、名を足利義視と改め、細川勝元の後見を得て今出川邸に移る。
- 後土御門天皇即位
1465(寛正6)
- ●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:渋川義鏡・上杉政憲
- 【京都】足利義政と日野富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生。
1466(寛正7/文正1) 文正の政変
- ●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕・上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:渋川義鏡・上杉政憲
- 【京都】文正の政変。伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら将軍近臣が失脚する。側近を失った足利義政の影響力が低下し斯波家の家督は斯波義廉に戻される。将軍による政治の権力が衰え応仁の乱へと続く。
足利義政の時代の「公事」を題材にした小説。
戦国時代 (応仁・文明の乱 1467-1478) 1467–1590
1467(文正2/応仁1) 応仁・文明の乱がおこる
- ●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長→斯波義廉
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】御霊合戦(上御霊神社の戦い)。上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突。
- 【京都】応仁・文明の乱。山名宗全・畠山義就ら西軍と細川勝元ら東軍とが京都で戦う。
- 【京都】足利義視、伊勢に逃げる
- 2014年東大:応仁の乱は、中央の文化が地方に伝播する契機になったが、そのなかで武士の果たした役割はどのようなものであったかを、乱の前後における武士と都市との関わりの変化に留意しながら回答するよう求められました。
- 1981年東大:応仁の乱を境に起こった変化を、東洋学者の内藤湖南の文章を引き合いに問われました。
1468(応仁2)
- ●将軍:足利義政 ○管領:斯波義廉→細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】足利義政と細川勝元は足利義視を説得して東軍に帰陣させる。文正の政変で失脚した伊勢貞親を政務に復帰させる。足利義視は再度出奔して比叡山に登る。西軍が足利義視を迎え入れて新将軍とする。西幕府。細川勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。西岡の戦い。大内政弘によって山城国は西軍によって制圧されつつある。
- 【関東】上野で綱取原合戦。
- 関白以下の公家、乱を避け地方の豪族に流寓
- 雪舟の四季山水図
1469(応仁3/文明1)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【西国】大友親繁・少弐頼忠が大内政弘の叔父・大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻する。陶弘護に撃退される。
- 【関東】岩松持国の次男・岩松成兼が上杉方の岩松家純に追放され、岩松氏を岩松家純が統一する。
1470(文明2)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【西国】大内教幸が反乱を起こす。陶弘護に撃退される。
- 【京都】東西両軍の戦いは膠着状態。京都の市街地は焼け、荒廃した。
- 【地方】上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大。
- 南朝の遺臣、小倉宮の王子を奉じて紀伊で挙兵
1471(文明3)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】西軍の主力・朝倉孝景が東軍側に寝返る。
- 【関東】足利成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻。上杉顕定らはその間に古河に出陣。古川公方と堀越公方が伊豆三島で戦う
- 朝倉敏景が越前の守護になる
- 蓮如が越前古崎道場を建てる
- 東常緑が宗祗に古今伝授する
1472(文明4)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いがもたれ始める。
1473(文明5)
- ●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元→畠山政長(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】山名宗全と細川勝元が相次いで死去。
九代将軍 足利義尚 1474-1489
1474(文明6)
- ●将軍:足利義政→足利義尚 ○管領:斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。
- 一休が大徳寺住職になる
- 加賀国で一向一揆が起こり、守護富樫政親の兵と戦う
- 足利義政、朝鮮に書を送り、明の勘合符を得る
1475(文明7)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
1476(文明8) 長尾景春の乱
- ●将軍:足利義尚 ○管領:斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【関東】長尾景春の乱。長尾景春が関東管領家の執事になれなかったため鉢形城にて挙兵。
- 【北条家】伊勢盛時(のちの伊勢宗瑞(北条早雲として知られる))が駿河に下る。今川家の調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させる。
1477(文明9) 応仁・文明の乱が終結
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長、斯波義廉(西幕府)
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【関東】長尾景春が五十子を陥落させる。
- 【京都】応仁・文明の乱が終結。大内政弘・畠山義就ら西軍諸将が領国に帰る。
戦国時代 (応仁の乱終結~明応の政変 1478-1493) 1467–1590
1478(文明10)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【関東】上杉顕定は足利成氏と和睦を成立させる。千葉孝胤を境根原合戦で破る。
1479(文明11)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【関東】足利成氏は幕府とも和議を申し出る。
- 【関東】足利義政は今川家における龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する。しかし、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても今川範満は家督を戻さず。
- 蓮如が山科本願寺を建てる
1480(文明12)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
1481(文明13)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 一休宗純が亡くなる
1482(文明14)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 足利義政が東山銀閣寺の造営を始める
1483(文明15) 都鄙合体により幕府と足利成氏と和睦
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【関東】都鄙合体により幕府と足利成氏との和睦が成立。
1484(文明16)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】畠山政長と畠山義就の軍が宇治で戦う
1485(文明17) 山城の国一揆
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【京都】山城国一揆。山城の国人・農民が団結して両畠山軍を追い出し、8年間自治を行った。
- 慈照寺東求堂建立
1486(文明18)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長⇒細川政元⇒畠山政長
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【関東】太田道灌、主君上杉定正に暗殺される
- 雪舟の山水長巻
1487(文明19/長享1)
- ●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長⇒細川政元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
- 【北条家】駿河へ下向した伊勢宗瑞が龍王丸を補佐する。石脇城(焼津市)に入って同志を集める。11月に兵を起こし、館を襲撃して今川範満とその弟・小鹿孫五郎を殺害する。龍王丸は駿河館に入る。
1488(長享2) 加賀の一向一揆
- ●将軍:足利義尚 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知
- 【関東】長享三戦。長享の乱における戦。上杉顕定と上杉定正の間で行われた戦い。実蒔原の戦い、須賀谷原の戦、高見原の戦の3つの戦をいう。
- 【一向宗】加賀一向一揆。高尾城の戦(長享の一揆)。守護・富樫政親を追い払い約100年の間、自治を行うようになる
- 飯篠長威斉家直(剣豪)が亡くなる
- 2005年京大:新たに各地で成立した都市と、伝統的な都市における新しい展開が問われました。この都市の発達を、要因に触れつつ、具体的に述べる問題でした。
→堺などに代表される港町などの商業都市や、有力寺院の門前町、戦国大名の城下町や、従来の都市である京における町衆の自治などです。加賀における自治はこうした一例です。
(代)八代将軍 足利義政 1489-1490
1489(長享2/延徳1) 足利義政が銀閣寺を建立
- ●将軍:足利義政 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知
- 足利義政が銀閣寺を建立
銀閣寺建立をめぐる小説です。
十代将軍 足利義材(義稙) 1490-1493
1490(延徳2)
- ●将軍:足利義材 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知
- 銀閣寺の完成
- 足利義政が亡くなる
1491(延徳3)
- ●将軍:足利義材 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利政知⇒足利茶々丸
- 【北条家】伊勢宗瑞(北条早雲)、伊豆を占領
1491(延徳4/明応1)
- ●将軍:足利義材 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利茶々丸
戦国時代 (明応の政変~関東・奥羽惣無事令 1493-1587) 1467–1590
1493(明応2) 明応の政変
- ●将軍:足利義材→足利義澄 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- ◎堀越公方:足利茶々丸
- 【京都】明応の政変。細川政元が将軍・足利義稙を廃位し、足利義澄を擁立する。以後将軍家は義稙流と義澄流に二分される。
- 【北条家】明応の政変を受けて、伊豆討入り。伊勢宗瑞が伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃する。
1494(明応3)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- 上杉定正が亡くなる
十一代将軍 足利義澄 1495-1508
1495(明応4)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- 鎌倉大地震
- 【北条家】伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を攻め、城主大森藤頼を追い出す。※小田原占拠時期には諸説あり
- 雪舟の破墨山水図
1496(明応5)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
- 【一向宗】蓮如が石山本願寺を建立
1497(明応6)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利成氏⇒足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
1498(明応7)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 明応大地震
- 足利茶々丸が亡くなる
1499(明応8)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 蓮如が亡くなる
1500(明応9)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 後柏原天皇が即位
1501(明応10/文亀1)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
1502(文亀2)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
1503(文亀3)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 大森藤頼が亡くなる
1504(文亀4/永正1)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 【関東・北条家】立河原の戦。長享の乱の事実上の決戦。武蔵国立河原で、上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞 (北条早雲) らの連合軍の戦。
- 【一向宗】般若野の戦(芹谷野の戦い)。越中般若野で行われた越中一向一揆と越後守護代・長尾能景との間の戦い。
- 【一向宗】加賀・能登・越中の一向一揆が守護朝倉貞景に破れ、古崎道場などが潰れる
1505(永正2)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
1506(永正3)
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 雪舟が亡くなる
1507(永正4) 永正の錯乱/長享の乱の終結
- ●将軍:足利義澄 ○管領:細川政元⇒細川澄之⇒細川澄元
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 【京都】永正の錯乱。細川政元が暗殺され、首謀者の細川澄之は自害、細川澄元が管領となるが細川高国と権力争いをはじめる。
- 【関東】長享の乱の終結。扇谷上杉家が山内上杉家と和睦。
(再)十代将軍 足利義稙(義材) 1508-1522
1508(永正5)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川澄元⇒細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
- 【京都】細川高国が管領となり、前将軍義稙が京都に戻り再び将軍となる
- 幕府が撰銭令を出す
- 【武田家】坊峰合戦。武田信虎と叔父・油川信恵により行われた合戦、信虎と小山田弥太郎とで行われた合戦。
1509(永正6)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定
1510(永正7) 三浦の乱
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕定・上杉顕実
- 【海外】李氏朝鮮の三浦の乱。三浦(釜山浦・薺浦・塩浦)の邦人(恒居倭人(貿易の為に朝鮮に居留している日本人)が宗盛弘の援護をうけ釜山を攻略。
- 【関東】長森原の戦。関東管領の上杉顕定が戦死。
1511(永正8)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利政氏 ○関東管領:上杉顕実
- 【京都】船岡山合戦。足利義材・細川高国・大内義興と足利義澄・細川澄元との争い。足利義材の勝利。
1512(永正9)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利政氏⇒足利高基 ○関東管領:上杉顕実
1513(永正10)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉顕実
1514(永正11)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉顕実
1515(永正12)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉顕実・上杉憲房
- 根来寺多宝塔建立
1516(永正13)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
- 【北条家】伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦氏を滅ぼす
- 幕府が大内義興に対明貿易の独占権を認める
1517(永正14)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
- 【毛利家】有田中井手の戦。毛利元就が武田元繁を破る。
1518(永正15)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
1519(永正16)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
- 今川義元誕生
- 伊勢宗瑞(北条早雲)が亡くなる
1520(永正17)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
1521(永正18/大永1)
- ●将軍:足利義稙 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
- 関東管領の山内上杉氏と扇谷上杉氏が争う
- 細川高国が足利義晴(足利義澄の子)を12代目将軍とする
- 上条河原の戦で福島正成が戦死
- 甲斐にて武田信玄(晴信)誕生
十二代将軍 足利義晴 1522-1547
1522(大永2)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川高国
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
1523(大永3) 寧波の乱
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川高国(足利義晴方)
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
- 寧波の乱。大内義興と細川高国による勘合貿易の争い、この頃より密貿易などを目的とした後期倭寇が盛んになる。
- 毛利元就、家督を相続、郡山城主となる
1524(大永4)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川高国
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房
- 北条氏綱、江戸城主上杉朝興を敗り、江戸城に入る
1525(大永5)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川高国⇒細川稙国
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲房・上杉憲寛
- 土佐光信が亡くなる
1526(大永6)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:畠山義堯
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲寛
- 後奈良天皇即位
- 今川氏親、家法33条を定める。同年に亡くなる。
- 里見義堯、鎌倉へ侵攻
- 武田信虎、駿河にて北条氏綱を破る
1527(大永7)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲寛
- 西村正利(斎藤道三)、守護の土岐頼武を攻め越前国に追放
- 三河にて酒井忠次 誕生
- 大和にて柳生宗厳誕生
1528(大永8/享禄1)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲寛
- 大内義興が亡くなる。大内義隆が大内家を継ぐ
1529(享禄2)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲寛
1530(享禄3)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲寛
- 越後にて上杉謙信(景虎・政虎・輝虎)誕生
- 狩野正信が亡くなる
1531(享禄4)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲寛・上杉憲政
- 一向一揆が朝倉教景を破る
- 森山崩れ(守山崩れ)。三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された事件。
- 大物崩れ(天王寺の戦)。細川晴元(細川澄元の子)・赤松政祐・三好元長(三好長慶の父)と細川高国・浦上村宗の戦い、細川晴元の勝利で細川高国は自害した。
1532(享禄4/天文1)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲政
- 細川晴元が家臣の三好元長を殺害する
- 織田信秀、那古野城を奪い居城にする
- 大和の一向一揆が興福寺を焼くなど、畿内各地で一向一揆が起きる
- 本願寺証如が畠山義宣を攻め堺で自害させる
1533(天文2)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲政
1534(天文3)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基 ○関東管領:上杉憲政
- 尾張勝幡城にて織田信秀の次男として織田信長(幼名 吉法師)誕生。生母は土田氏。
1535(天文4)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利高基⇒足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
1536(天文5)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 伊達稙宗、家法の塵芥集を定める
- 天文法華の乱。比叡山の僧が京都の法華経の寺を焼く。
- 今川氏輝が亡くなり、花倉の乱が起きる。今川義元が勝利し、家督を継ぐ。武田信虎の娘を娶る
- 大内義隆が家臣の陶興房に少弐資元を攻撃させ、少弐資元が自決する
1537(天文6)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 扇谷上杉家当主の上杉朝興が病死
- 細川晴元、畿内を平定
- 尾張国中村にて豊臣秀吉(木下藤吉郎)誕生
1538(天文7)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 国府台合戦(第一次)で北条氏綱が里見家に勝利。小弓公方の足利義明が戦死。
- 尾張にて前田利家誕生
1539(天文8)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 大内義隆が勘合貿易を始める
- 土佐にて長宗我部元親(幼名 弥三郎)誕生
1540(天文9)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 吉田郡山城の戦い(毛利元就、尼子晴久軍を撃退)
- 諸国で疫病流行
- 天皇が宸筆心経を諸国一宮に奉納
1541(天文10)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- ポルトガル船が豊後に漂着
- 吉田郡山城の戦で尼子久幸が戦死
- 武田晴信(信玄)が父の武田信虎を駿河国に追放する
- 北条氏綱が亡くなり、北条氏康が家督を継ぐ
1542(天文11)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 太平寺の戦。10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政が三好長慶、遊佐長教らに討ち取られた。
- 月山富田城の戦(第一次)。大内氏と尼子氏の戦。
- 小豆坂の戦(第一次)。西三河地方の覇権を巡る、織田信秀と今川義元との間で生じた抗争。
- 大桑城の戦。斎藤利政(道三)、主人の土岐頼芸を追放。
- 山名祐豊、生野銀山の本格採掘を開始
- 天文の乱。伊達稙宗と晴宗の父子間の内紛に伴う争乱。
- 武田晴信、諏訪頼重、諏訪頼継を破り諏訪平定
- 岡崎城にて徳川家康誕生(幼名 竹千代)誕生
- 伊賀忍者の頭領、二代目服部半蔵(正成)誕生
1543(天文12) 鉄砲の伝来
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 鉄砲伝来(ポルトガル人が種子島で鉄砲を伝える)
- 水野忠政が亡くなる
- 1989年一橋:近代以前の日本は、東アジア社会の一員として、他の地域と相互に影響を及ぼしあいながら、歴史を展開させてきました。次に掲げた年には、日本の対外関係史上重要な出来事が起きています。そのそれぞれについて、内外の歴史的背景と日本社会への影響を含めて説明が求められました。(1)607年、(2)894年、(3)1401年、(4)1543年
1544(天文13)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 美濃にて竹中重治(竹中半兵衛)誕生
1545(天文14)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 近江にて浅井長政 誕生
1546(天文15)
- ●将軍:足利義晴 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 河越夜戦で勝利した北条家が武蔵国を平定、上杉朝定が死去
- 尾張にて山内一豊 誕生
- 姫路城にて黒田官兵衛義高(晩年〜如水)誕生
十三代将軍 足利義輝 1547-1565
1547(天文16)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 足利義輝(足利義晴の子)が13代目将軍となる
- 舎利寺の戦。細川晴元方の三好長慶らと細川氏綱・遊佐長教らの戦。
- 小田井原の戦。武田晴信と関東管領・上杉憲政、信濃国志賀城主・笠原清繁との間で行われた志賀城をめぐる攻城戦。
- 加納口の戦(井ノ口の戦い)。織田信秀・朝倉孝景・土岐頼芸と斎藤道三との間で起こった合戦。
- 織田信長の初陣。駿河今川義元方の三河の吉良大浜城攻略のため出陣。
- 松平広忠、子の竹千代(徳川家康)を人質として今川義元に送る途中織田信秀に奪われる
- 武田信玄が甲州法度(民制55条)を定める
1548(天文17)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 上田原の戦。村上義清が武田家に勝利(板垣信方、甘利虎泰が死去)
- 塩尻峠の戦。信濃守護・小笠原長時軍と甲斐守護・武田晴信軍との間で行われた合戦。
- 小豆坂の戦(第二次)で、今川義元が織田信秀に勝利
- 長尾景虎(上杉謙信)、長尾家を継ぐ
- 斎藤利政(道三)、娘 帰蝶(濃姫)を織田信長に嫁がせる
- 三河にて本多忠勝、榊原康政 誕生
1549(天文18) キリスト教伝来
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川晴元
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 松平広忠、暗殺される。尾張に抑留されている松平竹千代(徳川家康)と織田信広を交換する。松平竹千代が今川氏の人質になる
- 江口の戦い(江口合戦)。三好長慶と同族の三好政長(宗三)が衝突した戦い。
- キリスト教伝来。イエズス会の宣教師 フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸。
- 織田信長が斉藤道三の娘である濃姫と婚姻する
1550(天文19)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 二階崩れの変。大友氏の内紛、お家騒動。大友義鑑父子の襲撃が大友館の二階で行われた。大友義鑑が死去。
- 砥石崩れ(戸石崩れ)。信濃国小県郡の砥石城(戸石城)において、武田晴信と村上義清との間で行われた合戦。横田高松が死去。
- ザビエルが山口・京都で布教を行う
- 三好長慶が入京し、将軍・足利義輝が近江に逃げる
1551(天文20)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利晴氏 ○関東管領:上杉憲政
- 織田信秀が死去し、織田信長が家督を相続。
- 大寧寺の変。陶晴賢が主君・大内義隆を殺害する。
- 勘合貿易の廃絶
1552(天文21)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利晴氏⇒足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 織田信秀が没する。赤塚の戦い。尾張国赤塚で起きた戦い。織田信長が当主となっておきた内紛。
- 北条氏康、関東管領上杉憲政を追放し、関東を支配下に治める
- 上杉憲政が長尾景虎(謙信)を頼る
- 六角定頼が死去し、六角(義賢)承禎が家督を継ぐ
1553(天文22)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 平手政秀、織田信長を諫めて自害
- 川中島の戦(第一次)。武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の戦い。
- 葛尾城攻め。武田晴信(信玄)、村上義清を越後へ追う。
- 三好長慶、畿内を平定
- 毛利輝元誕生
1554(天文23)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 武田信玄・北条氏康・今川義元が甲相駿三国同盟を結ぶ。
- 門司城の戦(第一次)。大友義鎮と毛利元就との合戦。
- 新宮党の変。尼子晴久が家中の統一を図るため尼子国久、誠久親子ら新宮党幹部を粛清。
- 織田信長が織田信光と謀り、守護代・織田信友を殺害し、清洲城を奪って居城とする。
- 木下藤吉郎(豊臣秀吉)、織田信長に仕える
1555(天文24/弘治1)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 織田信長、守護代織田信友を自害させ清洲城に入る
- 川中島の戦い(第二次)。武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の戦い。
- 厳島の戦。毛利元就(5千)と陶晴賢(3万)の戦い、毛利元就の謀略で勝利、毛利元就はほぼ中国地方を支配に治めるようになる。陶晴賢が死去
- 倭寇が南京安定門を焼く(後期倭寇が盛ん)
1556(弘治2)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 長良川の戦。斎藤道三と長男・斎藤義龍との間で美濃国の長良川にて行われた戦。斎藤道三が死去。
- 稲生の戦。織田弾正忠家で起きた、織田信長と弟・信行(信勝)との家督争い。林美作が死去。
1557(弘治3)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 門司城の戦(第二次)。大友義鎮と毛利元就との合戦。
- 勝山城の戦(大内義長、毛利元就に攻められ、長門勝山城にて自決)
- 正親町天皇即位
- 織田信長、弟の織田信行を殺害
- 毛利元就、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に一心協力を訓戒「三本の矢」の逸話となる
1558(弘治4/永禄1)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 足利義輝、京に戻る
- 浮野の戦。織田信長と織田信賢の戦。
1559(永禄2)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 秋月種実、旧領を回復
- 岩倉城の戦。織田信長と織田信賢の戦。
- 合勢川の戦。肥後国で起こった赤星道雲と隈部親永による合戦。
- 武田晴信、信玄を名乗る
- 門司城の戦(第三次)。大友義鎮と毛利元就との合戦。
- 北条氏政、家督を継ぐ
- 織田信長、上洛、足利義輝に謁見、尾張統一宣言
- 駿河にて松平信康(幼名 竹千代、正室 織田信長の娘 五徳)誕生
- 狩野元信が亡くなる。狩野派確立
1560(永禄3) 桶狭間の戦
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政
- 桶狭間の戦。織田信長5千と今川義元2万5千の戦い、織田信長は奇襲で今川義元を討ち取る。
- 徳川家康が今川氏から独立
- 野良田の戦。浅井長政と六角承禎との戦。浅井長政が勝利し、浅井家の北近江における覇権が確立。
- 武田信玄、甲相駿三国同盟を破棄し駿河国へ侵攻
- 越後にて直江兼続誕生
- 近江にて石田三成 誕生
1561(永禄4)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉憲政・上杉輝虎(謙信)
- 上杉謙信による小田原城攻め。
- 長尾景虎(上杉謙信)、上杉憲政から関東管領職を継ぐ
- 斎藤義龍が死去し、斎藤龍興が家督を相続ぐ
- 門司城の戦(第四次)。大友義鎮と毛利元就との合戦。
- 川中島の戦(第四次)。武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の戦い。武田信繁、諸角昌清、山本勘助が死去。
- 将軍地蔵山の戦。三好義興が松永久秀とともに六角義賢を攻めた戦。
- 遠江にて井伊直政 誕生
1562(永禄5)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 織田信長と松平(徳川)家康による清洲同盟成立
- 久米田の戦。畠山高政が三好実休を攻めた戦。三好実休が戦死し、三好氏没落の原因の一つとなった。
- 教興寺の戦(教興寺合戦)。三好長慶と畠山高政との合戦。
- 川原御所の変。北畠具信が浪岡城内で甥の北畠具運を殺害し、具信もその場で殺害された事件。
- 毛利元就、出雲侵攻開始
1563(永禄6)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 朝倉城の戦。長宗我部元親と本山茂辰の戦。
- 松平元康、家康に改名
- 善通寺合戦。三好実休が天霧城の香川氏を攻めた戦。
- 山城にて細川忠興誕生
- 織田信長、小牧山城を居城とする
- 上泉伊勢守信綱(剣豪)が諸国遍歴の旅に出る
1564(永禄7)
- ●将軍:足利義輝 ○管領:細川氏綱
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 国府台合戦(第二次)。下総国の国府台城で北条氏と里見氏との戦。
- 松平家康、三河の一向一揆平定
- 竹中半兵衛、稲葉山城をのっとるが斎藤龍興に返却
- 上泉伊勢守信綱と丸目蔵人佐長恵が将軍・足利義輝の前で剣術披露
- 三好長慶没する。
1565(永禄8) 永禄の変
- ●将軍:足利義輝 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 永禄の変。三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)・松永久秀が足利義輝を殺害する。
- 正親町天皇「大うすはらい」を命じる
- 義信事件(信玄暗殺計画)で、武田義信が廃嫡
- 松平久秀が天主堂を壊し宣教師を京都から追放する
- 織田信長が武田信玄と同盟を結ぶ
- 中濃攻略戦。織田信長が美濃の一部を攻略。
- 毛利元就、出雲 月山富田城を包囲尼子義久、籠城
1566(永禄9)
- ●将軍:空位 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 箕輪城の戦。武田軍による長野業盛との戦。
- 永禄九年の政変。能登国の守護家畠山氏(七尾畠山家)で起こったクーデター。能登畠山家の重臣である長続連・遊佐続光ら(畠山七人衆)によって、能登守護・畠山義綱と父・畠山義続らが追放された事件。
- 毛利元就、月山富田城の戦(第二次)で尼子家に勝利中国10ヶ国を支配下に治める
- 家康が徳川氏を称する
1567(永禄10)
- ●将軍:空位 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 三船山の戦。上総国君津郡三船台において、里見義弘と北条氏政の間で戦われた戦。太田氏資が死去。
- 東大寺の戦で、松永久秀が三好三人衆に勝利
- 義信事件が終結(武田義信が死去)
- 織田信長が美濃を支配し、井ノ口を岐阜に改名する
- この頃から天下布武の印を使用するようになる(天下は京都及び畿内を指し、日本全国は意味していなかった。)
- 織田信長と浅井長政が同盟を結ぶ
- 足利義昭が越前の朝倉氏を出、信長を頼る
- 伊達政宗誕生
- 信濃にて真田幸村 誕生
十四代将軍 足利義栄 1568
1568(永禄11)
- ●将軍:足利義栄 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 三好三人衆が足利義栄を14代目将軍とする
十五代将軍 足利義昭 1568-1588
1568(永禄11) 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
- ●将軍:足利義昭 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、三好三人衆を四国に追う。足利義昭15代室町将軍になる。
- 信長の上洛戦が始まる
- 箕作城攻め。六角(義賢)承禎が織田信長に観音寺城から追われる。
- 武田信玄の駿府攻め
- 観音寺城の戦い。織田信長・浅井長政連合軍が六角氏を駆逐。
- 播磨にて黒田義高の長男として黒田長政 誕生
- 西芳寺(苔寺)庭園再建
- 京都南蛮寺(永禄寺)建立
1569(永禄12)
- ●将軍:足利義昭 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 本國寺の変。三好三人衆が本國寺の足利義昭を襲撃。
- 織田信長が築いた二条御所に足利義昭が移る
- 織田信長、ルイス・フロイスに京での居住、キリスト教布教を許可
- 立花城の戦。大友氏と毛利氏の戦い。
- 尼子勝久、大友宗麟の援軍を受けて隠岐で挙兵、出雲奪還
- 小田原城攻め(武田信玄)
- 三増峠の戦。武田信玄と北条氏により行われた合戦。
- 大河内城の戦。織田信長と、伊勢国の国司・北畠具教・具房親子との戦。
- 上杉謙信と北条氏政が同盟を結ぶ
- 織田信長が伊勢(三重県付近)を支配する
- 足利義昭は織田信長と対立して幾度となく信長包囲網を形成するが全て失敗に終わる
1570(永禄13/元亀1)
- ●将軍:足利義昭 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 徳川家康、居城を浜松城に移す
- 上泉伊勢守信綱と丸目蔵人佐長恵が正親町天皇の御前で剣術を披見
- 織田信長、足利義昭に殿中御掟で諫め対立(5か条の条書をつきつける)
- 金ヶ崎の戦い。織田信長と朝倉義景との戦。
- 長光寺城の戦。織田信長と朝倉義景との戦。
- 姉川の戦。織田信長、家康と共に浅井長政・朝倉義景軍を破る。
- 今山の戦。大友宗麟と龍造寺隆信との戦。
- 宇佐山の戦。織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦。森可成が死去。
- 志賀の陣。織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦。
- 石山合戦。本願寺顕如、織田信長に敵対。
- 伊勢長島で一向一揆が起こる。本願寺と織田信長の戦い。
- 織田信長、天皇および将軍の調停により、浅井長政・朝倉義景と一旦和睦
- 屋裏の変。北信愛が南部信直を保護し、南部晴政と対立。
- 湊騒動。出羽国湊城などを主な戦場として安東氏一族の檜山安東氏と湊安藤氏との間で繰り広げられた騒動。
- 野田・福島の戦。織田信長と三好三人衆との戦。石山合戦の端緒となる戦い。別名「第一次石山合戦」
- 厳島神社本殿建立
- 遠江にて徳川秀忠誕生
伊勢長島の一向一揆を扱った小説です。
1571(元亀2)
- ●将軍:足利義昭 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 伊勢長島攻め(第一次)。伊勢長島を中心に本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長と戦う。
- 大仏ヶ鼻城の戦。大浦(津軽)為信と石川高信の戦。石川高信が死去。
- 織田信長、比叡山延暦寺の焼き討ち
- 塚原卜伝(剣豪)が亡くなる
- 大和にて柳生宗矩 誕生
1572(元亀3)
- ●将軍:足利義昭 ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 織田信長、足利義昭に17か条の「異見書」をつきつける
- 木崎原の戦。日向国で伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた戦。
- 岩村城の戦。美濃国での武田氏と織田氏の戦。
- 三方ヶ原の戦い。武田信玄、織田・家康軍に大勝。
織豊時代(安土桃山時代) 1573-1603
織田政権 1573-1582
1573(元亀4/天正1) 室町幕府滅亡
- ●将軍:足利義昭(追放される) ○管領:空位
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 武田信玄が病死、武田勝頼が家督を継ぐ
- 桜城の戦。篠原長房が死去。
- 織田信長、足利義昭を京都から追放し、室町幕府滅亡
- 一乗谷城の戦い 。織田信長と朝倉義景の戦い朝倉氏の滅亡。
- 小谷城の戦。浅井久政、浅井長政が死去。
- 伊勢長島攻め(第二次)。伊勢長島を中心に本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長と戦う。
1574(天正2)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 越前一向一揆が起こる
- 岩村城の戦。武田氏と織田氏の岩村城をめぐる戦。
- 高天神城の戦(第一次)。武田勝頼と徳川家康の間で行われた、遠江国・高天神城における2度の攻城戦。
- 伊勢長島攻め(第三次)。伊勢長島を中心に本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長が伊勢長島一向一揆を制圧。
- 織田信長、蘭奢待を切り取る
1575(天正3)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 長篠の戦い。織田信長、松平家康と共に武田勝頼を破る、内藤昌豊、馬場信春、山県昌景、真田昌輝、真田信綱らが戦死。
- 高屋城の戦。織田信長と三好康長、石山本願寺とで、河内高屋城、新堀城、石山本願寺一帯で行われた戦い。石山合戦の一部。別名「第二次石山合戦」「高屋・新堀城の戦い」。
- 岩村城の戦。織田信忠、岩村城を攻略(秋山信友が死去)。
- 四万十川の戦い。長宗我部氏と土佐一条氏の戦。長宗我部元親の土佐統一が決定的となる。別名「渡川の戦い」。
- 越前一向一揆が織田信長に鎮圧される。下間頼照が死去。
- 羽柴秀吉、長浜城を築城し居城にする。
- 織田信忠、家督を相続
- 狩野秀頼の高雄観桜図屏風
1576(天正4)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 黒井城の戦(第一次)。明智光秀らによる丹波国征討。赤井氏の堅城黒井城への攻城戦。
- 織田信長、安土城築城開始
- 織田信長、内大臣になる
- 天王寺砦の戦。摂津天王寺で行なわれた織田信長と一向一揆との戦い。別名「天王寺砦の戦い」。原田直政が死去。
- 木津川の戦(第一次)。毛利氏と織田氏との間に起こった海戦。石山合戦の一戦。
- 七尾城の戦(第一次)。上杉謙信軍と能登畠山家の重臣・長続連率いる畠山軍の能登七尾城での戦い。
- 北畠具教、織田信長勢に攻め討たれる
- 妙喜庵数寄屋建立
1577(天正5)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 雑賀攻め(第一次、第二次)。織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻。
- 天神山城の戦。浦上宗景・三浦貞広と宇喜多直家との間の戦。
- 織田信長、安土城下に楽市令公布
- 七尾城の戦(第二次)。上杉謙信、能登国を攻略
- 手取川の戦。加賀国の手取川において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した合戦。
- 羽柴秀吉、中国の毛利攻めを開始
- 黒井城の戦(第二次)。明智光秀らによる丹波国征討。赤井氏の堅城黒井城への攻城戦。
- 信貴山城の戦。松永久秀、織田信忠に信貴山城を包囲され、信長が欲していた平蜘蛛茶釜を体に括り付けて爆死 、松永久通が死去。
- 伊東崩れ。伊東義祐が島津家の侵攻により日向国から追われる。
- 羽柴秀吉、播磨上月城攻略
- 黒田孝高(官兵衛)、居城の姫路城を秀吉に献上
- 織田信長、右大臣
1578(天正6)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:上杉輝虎(謙信)
- 上杉謙信病没し、御館の乱がおきる。上杉景虎、上杉景勝に追われ自害。
- 織田信長、右大臣・右大将を辞官
- 三木城兵糧攻め。別所長治が織田家から毛利家に寝返る。
- 上月城の戦で、尼子勝久が吉川元春に攻められ自害。戦のあと、山中鹿之介、吉川元春に殺害される
- 月岡野の戦。越中国月岡野における織田家と上杉家の戦い
- 耳川の戦。大友宗麟と島津義久の戦い日向国高城川原を主戦場とした合戦。別名「高城川の戦い」
- 木津川の戦(第二次)。毛利氏と織田氏との間に起こった海戦。石山合戦の一戦。織田水軍、九鬼嘉隆に建造させた鉄板張の船で毛利水軍を破る
- 有岡城の戦。荒木村重が織田信長に謀反。
1579(天正7)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:空位
- 安土城の天守が完成
- 明智光秀、波多野秀治の八上城を攻め落とす
- 松平家康、織田信長の命を受け嫡男・松平信康を自刃させ、正妻・築山殿を殺害させる
- 天正伊賀の乱(第一次)。伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。
- 宇喜多直家、毛利家から織田家に寝返る
- 有岡城の戦。荒木村重が有岡城から逃亡し開城。
1580(天正8)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:空位
- 三木城兵糧攻めで、別所家滅亡。別所長治が死去。
- 本願寺の顕如、朝廷の斡旋により織田信長と和睦。石山合戦はここに終結。
- イギリス商船、平戸に来航
- 織田信長、大和で指出検地
- 正木憲時の乱。里見家における内紛。
1581(天正9)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:空位
- 徳川家康が高天神城を攻略(高天神城の戦(第二次))。武田勝頼と徳川家康の間で行われた、遠江国・高天神城における2度の攻城戦。
- 織田信長の京都御馬揃え
- 龍造寺隆信、九州の北五州を制覇。蒲池鎮漣が死去。
- 新発田重家の乱。新発田重家と上杉景勝の戦い。
- 柴田勝家、能登国を平定
- 天正伊賀の乱(第二次)。伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。
- 鳥取城兵糧攻め。吉川経家が死去。
- 羽柴秀吉、淡路国を平定
- 宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、織田信長に謁見
1582(天正10) 本能寺の変
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:空位
- 柴田勝家、加賀一向一揆を鎮圧
- 織田信忠、信濃に進攻、武田軍総崩れとなり、天目山の戦で武田勝頼自決
- 本能寺の変。織田信長自刃、明智軍が二条城も攻め、織田信忠自刃、森坊丸・森蘭丸・森力丸戦死 。
- 高松城主 清水宗治、秀吉軍の水攻めに降伏、兵達の命と引き替えに自刃
- 羽柴秀吉、小早川隆景の助言を受けた毛利輝元と講和
- 羽柴秀吉、備中高松より「中国大返し」、姫路城に入り、軍備を整え、明智光秀討伐へ出陣
- 山崎の戦。羽柴秀吉対明智光秀、明智光秀が死去、明智秀満が死去、斎藤利三が死去。
- 清洲会議
- 羽柴秀吉、大徳寺で信長の葬儀を開催
- 天正壬午の乱。武田氏の旧領だった織田氏の領地で起きた一連の争乱。
- 神流川の戦。本能寺後、織田方の滝川一益と北条氏直・北条氏邦が武蔵国賀美郡周辺で争った戦い。天正壬午の乱における戦闘の1つ。
- 魚津城の戦。柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。
- 雑賀攻め(第三次)。織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻。
- 中富川の戦。長宗我部元親と十河存保以下の三好氏諸将との戦い
- 北方合戦。本能寺の変の中で旧領を回復しようとした安藤守就と、それを阻止する稲葉一鉄が戦った合戦。
- 天正遣欧使節。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信が少年使節団をローマ法王のもとに派遣。
- 河尻秀隆、一揆勢に討たれる
豊臣政権 1583-1603
1583(天正11)
- ◎古河公方:足利義氏 ○関東管領:空位
- 【豊臣秀吉】
- 賤ヶ岳の戦。柴田勝家と羽柴秀吉が、織田信長の跡目をめぐった争い。
- 北ノ庄城落城。柴田勝家が死去、お市の方が死去。
- 柴田勝家に味方した織田信孝が秀吉に命じられ自害
- 羽柴秀吉、大坂城を修築
- 長宗我部元親、四国統一
1584(天正12)
- 【豊臣秀吉】
- 小牧・長久手の戦。羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で行われた戦い。
- 岡崎への中入り途上、羽柴勢が敗北
- 羽柴秀吉が検地にとりかかる
- 【九州】沖田畷の戦。肥前島原半島で勃発した戦い。龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦。龍造寺隆信が死去。
- 末森城の戦。能登国末森城で行われた攻城戦。佐々成政と前田利家の戦い。
- 於義丸(羽柴秀康)が羽柴秀吉の養子に
- 美作にて宮本武蔵 誕生
1585(天正13)
- 【豊臣秀吉】
- 羽柴秀吉、石山本願寺跡に大坂城を築城し居城とする
- 羽柴秀吉の太田城水攻め
- 羽柴秀吉、関白になる
- 羽柴秀吉の越中攻め
- 羽柴秀吉の四国攻め
- 富山の役。金森長近、姉小路頼綱を攻め勝利。
- 【東北】粟之巣の変(高田原の変)。伊達輝宗が死去。
- 【東北】伊達政宗の小手森城の撫で斬り
- 【東北】人取橋の戦。鬼庭左月斎が死去。
- 石川数正、徳川家を出奔し羽柴秀吉を頼る
- 長宗我部元親、伊予国を攻略し四国を平定
- 天正大地震
1586(天正14)
- 【北条家】沼尻の戦。北条氏と佐竹氏・宇都宮氏陣営の合戦。
- 【豊臣秀吉】羽柴秀吉、妹の旭姫を徳川家康に嫁がせる
- 【九州】戸次川の戦。島津勢と豊臣勢の戦い。十河存保が死去。
- 【九州】岩屋城の戦。高橋紹運が死去。
1587(天正15)
- 【豊臣秀吉】
- 羽柴秀吉、太政大臣に任命され、「豊臣」の姓を賜る
- 九州攻めを開始
- バテレン追放令を出す
- 聚楽第を築造
- 北野大茶会を開催
- 2019年北大:「太閤様」によるキリスト教禁止の主たる目的が、キリスト教から日本の主権を守ることにあったと解釈できる理由について問われました。
- 2017年阪大:天正15(1587)年、豊臣秀吉はバレテン(宣教師)追放令を出しました。秀吉が追放令を発した理由と、この追放令の効果について問われました。
- 2000年京大:16世紀半ばに伝えられたキリスト教は宣教師たちの布教活動により西日本を中心に広まりましたが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はキリスト教宣教師たちの活動に対してどのような対応をしたかを、その意図を含めて問われました。
1588(天正16) 刀狩令
- 【豊臣秀吉】
- 淀城の築城を開始
- 海賊禁止令を出す
- 刀狩令を発布
- 聚楽第建立
- 後陽成天皇、豊臣秀吉の招きで聚楽第に行幸
- 【東北】大崎合戦。伊達政宗軍と大崎義隆・最上義光連合軍との戦い。
1589(天正17)
- 上杉景勝、佐渡国を平定
- 【東北】摺上原の戦。伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との戦。
- 豊臣鶴松誕生
1590(天正18) 豊臣秀吉、全国統一
- 豊臣秀吉、小田原城を攻め、北条氏直が降伏、天下統一を果たす
- 徳川家康、関東八州に移封され、江戸城に入る
- 【東北】奥州仕置。豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。
- 【東北】葛西・大崎一揆。豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主の木村吉清・清久父子に対する反乱。
- 2009年東大:豊臣秀吉が戦乱の世をしずめ、全国統一を実現しましたが、秀吉は、戦乱の原因をどのようにとらえ、その解決のためにどのような方針でのぞんだか、また、自身の命令を正当化するために、どのような地位と論理を用いたか、全国統一には、鎌倉幕府以来の武士社会における結合の原理に基づく面がありますが、秀吉はどのようにして諸大名を従えたかが問われました。
1591(天正19)
- 豊臣秀吉太閤となり、豊臣秀次を関白とする
- 【東北】九戸政実の乱。南部氏一族の九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱。
- 長谷川等伯の智積院襖絵
1592(天正19/文禄1) 文禄の役
- 文禄の役(朝鮮出兵)
- 豊臣秀吉、朱印船制度を定める
1593(文禄2)
- 豊臣秀頼誕生
1594(文禄3)
- 豊臣秀吉が伏見城へ移る
- 松本城建立
- 南禅寺方丈建立
1595(文禄4)
- 秀次事件(豊臣秀次が死去)
- 蒲生氏郷の死去により、蒲生騒動が起きる
1596(文禄5/慶長1)
- 豊臣秀吉が明使節と対面するも和平ならず
- 文禄の大地震
1597(慶長2) 慶長の役
- 慶長の役(第二次朝鮮出兵)
- 豊臣秀吉、醍醐で花見の茶会を催す
1598(慶長3)
- 豊臣秀吉が醍醐に花見
- 豊臣秀吉病没、豊臣秀頼が後継に
- 朝鮮からの撤退完了
- 醍醐寺三宝院表書院、庭園完成
1599(慶長4)
- 石田三成、七将に襲われたことから蟄居する
- 【九州】庄内の乱。伊集院忠棟の斬殺による島津氏と伊集院氏の争乱。
- 宇喜多騒動。宇喜多家における騒動。
- 園城寺金堂建立
1600(慶長5) 関ヶ原の戦い
- 直江状。直江兼続が西笑承兌に送った書簡。
- 徳川家康、上杉景勝討伐のため大坂を発ち、江戸城に入った後、会津に向けて出兵。小山会議が行われる。
- 石田三成、毛利輝元を総大将として挙兵
- 石田三成軍、伏見城に総攻撃をし陥落させる(鳥居元忠戦死)
- 徳川家康、江戸城を発ち、関ヶ原に着陣
- 関ヶ原の戦(大谷吉継戦死、島左近戦死)
- 石垣原の戦。黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の戦。佐賀関の戦いで田原紹忍が死去
- 長谷堂城の戦。上杉家と最上家の戦。
- 第二次上田城の戦。真田氏と徳川氏の戦。
- 石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが六条河原で斬首
なぜ上杉家は徳川を追わなかったか?
上杉征伐の軍が東進して、上杉家と対決する所で石田三成挙兵の報があり、徳川軍は西にとんぼ返りすることになる。この時何故上杉家は追わなかったのか?
この時追っていれば、徳川幕府の成立もなく、もしかしたら戦乱の時代がもう少し長引いたかもしれない。そうした「もし」というのはよく語られる。
だが、こうしたことは歴史の結果を知っている後世の見方である。
直江兼続は徳川を追うのを強く上杉景勝に進言したが、景勝がこれを退けたとされ、これは上杉の「義」に反するからと語られることがある。
だが、この時は徳川を追う理由が全くなかった。つまり上杉家はごくごく真っ当な作戦を採っていたのである。
陥りやすい間違いというのは、関ヶ原の戦いがたった一日で決着するというのを前提としてしまうことである。
だが、冷静に考えれば、関ヶ原の戦いでの東西の軍勢は史上最大規模であり、たった一日で決着が付くと考える方がおかしい。まして、事実上の総大将である石田三成が討ち取られるなどという事態が想定できるはずがない。
関ヶ原の戦い規模であれば、まずにらみ合いで数ヶ月過ぎてもおかしくないし、戦闘が始まっても、数週間から数ヶ月かかると見るのが妥当である。
敗北をするにしても、それぞれの本拠地に戻って籠城などして挽回の機会を図るだろう。
1601(慶長6)
- 【徳川家康】伏見銀座を創設。
1602(慶長7)
- 教如が東本願寺を建立し、本願寺が東西に分裂
1603(慶長8) 徳川家康が征夷大将軍となる
- 【徳川家康】征夷大将軍となり江戸に幕府を開く
- 神代年表(天地開闢~500年頃)
- 飛鳥時代・奈良時代年表(500頃~794年)
- 平安時代年表(794年~1185年)
- 鎌倉時代年表(1185年~1333年)
- 室町時代・安土桃山時代年表(1336年~1603年) 本ページ
- 江戸時代年表(1603年~1868年)
- 明治時代・大正時代・昭和時代年表(1868年~1988年)