十津川警部シリーズに代表されるミステリー作家の西村京太郎氏による時代小説の短編集です。
西村京太郎氏は「天使の傷痕」で江戸川乱歩賞を受賞した直後の1965年から1967年にかけて時代小説の短編を発表しています。
本書はその時の短編をまとめた短編集です。
1.天下を狙う(1965年)は黒田官兵衛を主人公にしています。
黒田官兵衛を扱った小説には次の小説があります。
2.真説宇都宮釣天井(1966年)は本多正純失脚の発端となった事件を扱っています。
舞台となる宇都宮城の紹介はこちらです。
3.権謀術策(1966年)は加藤家断絶(加藤忠広)。
4.維新の若者たち(1967年)は高杉晋作。
5.徳川王朝の夢(1966年)では勝海舟。
内容/あらすじ/ネタバレ
天下を狙う
豊臣秀吉が亡くなると、黒田如水(官兵衛)は謀臣の竹中外記を呼び今後の見通しを語らせました。
そして諜報方の雑賀弥平次を呼び、大坂の動静を逐一報告させることにしました。
徳川家康が動き始めましたが、如水が望みような戦雲はなかなか生まれませんでした。
慶長4年3月。前田利家が亡くなリます。
雑賀弥平次から石田三成が武将派との争いで五奉行の地位を追われて佐和山へ隠退したとの知らせを受けて如水は驚きました。
竹中外記と状況分析をして、雑賀弥平次を佐和山に行かせました。
慶長5年6月。徳川家康が上杉討伐の兵を起こしました。
戦雲が動き始め、黒田如水は合戦が長引くと想定しました。
その間に九州を平定してしまい、両軍が疲弊したところで中央に進めば天下の権が転がり込んでくるはずです。
真説宇都宮釣天井
元和8年。江戸市中に不吉な噂が流れました。
徳川秀忠は噂の出所を土井利勝と酒井忠世に命じて追及させました。
一人の男を捕まえ、拷問にかけると男は本多正純の名をあげました。
徳川秀忠は本多正純の名を聞いて不快になりました。
なぜならかつて本多正純は徳川家康の後継者として実兄の結城秀康を推したことがあったからです。
土井利勝は屋敷に戻り腹心の三田弥平次を呼びました。
土井利勝は今回の黒幕を女と考えていました。
そして捕まえた男・日下三郎を引見しかまをかけました。
日下がその名を聞いて驚愕したことで土井利勝は確信しました。
加納さま。家康の長女・亀姫、奥平氏に嫁ぎ加納殿の名で呼ばれています。
奥平氏は宇都宮城の城主でしたが、本多正純が城主となったため奥平氏は下総の古河藩主に転封されました。
亀姫としては正純のために古河に追い出されたという思いがありました。
土井利勝は一つの計算をしました。勝たなければならない賭けに打って出たのです。
権謀術策
寛永8年。徳川家光の時代。
土屋三蔵は己の不遇を嘆き、士官の話がないものかと思いを巡らせていました。
寛永9年。徳川秀忠が死ぬと、土屋三蔵は一波乱起きるかもしれないと期待しました。
三代将軍の座を巡って幕府内に、家光派と忠長派に分かれての抗争があり、再燃するかもしれないと考えたからです。
そうした中、土井利勝が忠長擁立に動き失脚したという噂が流れました。
土屋三蔵を中年の武士が訪ねてきました。士官の話です。
ある屋敷に着いた三蔵は相手が土井利勝であることを知り驚愕しました。
土井利勝は三蔵に加藤忠広に書状を届けて欲しいと頼みました。
加藤忠広は加藤清正の子です。
三蔵が出発すると、土井利勝は弥平次に三蔵が役に立つか聞きました。
弥平次は今度の役目には恰好の人間と断じました。
維新の若者たち
19歳の高杉晋作が吉田松陰の松下村塾の門下生の一人になりました。
ここで久坂玄瑞や吉田利麿、品川弥次郎、山形狂介、伊藤俊輔らを知りました。
20歳になった高杉晋作は久坂玄瑞と並んで松陰門下の双璧と呼ばれるようになっていました。
そして、久坂玄瑞が江戸へ留学した半年後、高杉晋作も江戸へ向かいました。
井伊直弼による弾圧が激しくなっており、高杉晋作は師・吉田松陰の身を案じていました。
萩に戻った高杉晋作に吉田松陰が斬首されたという知らせが届きました。覚悟はしていましたが、激しい衝撃でした。
高杉晋作は上海に行かされることになりました。上海に行っていた2か月半の間に時勢は大きく動き、井伊直弼が桜田門外で斬殺されていました。
長州藩がアメリカ軍艦に砲撃され、完敗します。上海を見てきた高杉晋作にとっては最初から結果の分かっていた戦いでした。
これを機に高杉晋作は長州藩の担い手になりました。
坂本竜馬が下関に来ているという話を聞きました。高杉晋作と桂小五郎に会いたいというのです。薩摩藩との盟約の話を持ってきたのでした。
徳川王朝の夢
勝海舟は軽輩の家に生まれた武士としては異例の出世をしていましたが、不満でした。幕府の政治の中枢からは離れていたからです。
この頃に西郷に初めて会いました。田舎者とみていましたが、話をしているうちに薩摩を動かし、この男のために徳川幕府が滅ぼされるかもしれないと思うようになりました。
長州征討のなか、将軍家茂が急死しました。勝海舟は訃報を江戸で聞き、悪いことは重なるものだと暗い顔になりました。
後継の将軍には一橋慶喜が就きました。どうせ柔弱な貴君子という先入観がありましたが、勝海舟が軍幹奉行に再任されると認識を改めるようになりました。
徳川慶喜と会った勝海舟は深い感動を覚えました。名君の素質をお持ちだと思ったのです。
長州と休戦することになり、徳川慶喜は1年、いや半年欲しいと言いました。その間に幕軍を近代化するためです。
勝海舟はフランス公使のロッシュに会いました。その後に徳川慶喜に会ったロッシュは絶対主義国家の道と徳川王朝の実現を説きました。
アメリカで共和制国家を見てきた勝海舟でしたが、今は西郷たちから幕府を守らなければなりません。そのためにはどんな幕府強化の方法も取り入れるつもりです。
ロッシュは600万ドルの借款を用意すると言いました。幕府のすべてがこの借款にかかっていました。
孝明天皇が崩御しました。勝海舟は愕然としました。孝明天皇は徳川家に親しい感情を持たれていたからです。
不吉なニュースはこれだけではありませんでした。フランス本国で外務大臣が更迭されたのです。