中城城は「なかぐすくじょう」と読みます。
貿易が行われていた屋宜の港から2キロほど、標高約160mの丘陵にあります。
300余りあるとされる沖縄のグスクの中でも最も遺構が良く残っていることで知られます。
中城城を含めた沖縄のグスクは本土より古い時代から石積技術が発達しており、石積の種類は3種類あります。野面積み、布積み(豆腐積み)、あいかた積み(亀甲乱れ積み)です。
この日は勝連城、中城城跡、首里城の順で巡りました。首里城周辺での食事に時間がかかってしまい、玉陵(たまうどぅん)を訪ねることができませんでした。
中城城跡は施設の奥が「正門」です。正門から奥へ経路順に見ることができます。正門までが遠いため、無料のカートで正門までの送迎があります。
今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡のいずれもジブリの天空の城ラピュタ感が満載でした。
世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成要素
2000年11月30日、日本で11件目の世界遺産として登録されました。
- 今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
- 座喜味城跡(ざきみじょうあと)
- 勝連城跡(かつれんじょうあと)
- 中城城跡(なかぐすくじょうあと)⇐ここ
- 首里城跡(しゅりじょうあと)
- 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
- 玉陵(たまうどぅん)
- 識名園(しきなえん)
- 斎場御嶽(せーふぁうたき)
中城城跡の歴史
15世紀の琉球王国・尚泰久王代に活躍した護佐丸のグスク(城)として知られます。
14世紀後半頃まで先中城按司が数世代にわたって、西の郭、南の郭、一の郭、二の郭の主な部分を築き上げました。
1440年頃に読谷の座喜味グスクから移ってきた護佐丸によって、北の郭、三の郭が増築され、今のグスクが完成したようです。
護佐丸とは?
護佐丸(ごさまる)中城グスクが、いつ誰によって築かれたのか確かなことはまだわかっていません。もともとは当時の豪族「先中城按司」の居城だったと伝えられていますが、城主として有名なのは護佐丸という人物です。
護佐丸は山田グスクで生まれ、読谷山按司を継ぎ、第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、三山統一を成し遂げました。「按司」とは地方の領主・支配者のことです。
その功績が認められ、読谷山の地を与えられた彼は座喜味にグスクを築いて移り、琉球統一事業に尽力しました。
しかし、その頃勢力を伸ばしてきた勝連城主の阿麻和利を牽制するため、王の命によりほどなく中城グスクに移され中城按司となります。そして1458年、第一尚氏王統第6代王・尚泰久の時に阿麻和利に滅ぼされました。
伝承では、天下を狙う阿麻和利が、首里と勝連の間に立ちふさがる中城按司・護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言(ざんげん)をし、王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸討伐を命じました。護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府軍には逆らえぬ」と、幼児だった三男を乳母に託して落ちのびさせ、妻子もろとも自害します。その後、阿麻和利も讒言がばれて王府軍によって滅ぼされたと伝えられています。
この出来事は「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれ、沖縄独特の芸能である「組踊」などの題材にもなっています。もっとも、「忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利」という構図は首里王府の見方で、阿麻和利こそ農民たちの英雄だったとする説もあり、琉球史最大の謎に包まれた事件です。
https://www.nakagusuku-jo.jp/heritage
中城城跡の見どころ
正門
西の方角に向けて建てられた正門です。門を挟むように両側に石垣がせり出しています。
南の郭
霊域・南の郭には聖地・久高島への遥拝所があります。
雨乞いの御嶽など、城内には8つの拝所があります。
一の郭
中城城で最も広いのが一の郭です。正殿がありました。
間切番所が建てられ、廃藩置県後は中城村役場に使用されましたが、沖縄戦で焼失します。
二の郭
一の郭と二の郭の石積み技法は、布積みです。
大井戸(ウフガー)
北の郭にある大井戸です。西の郭には夫婦井戸(ミートゥガー)と呼ばれる二つの井戸があります。
城郭内に水を確保できているのが、この城の特徴です。
裏門
三の郭
三の郭は新城(ミーグスク)とも呼ばれます。
石積み技法が最も進んだあいかた積み(亀甲乱れ積み)によって築かれています。
馬場・三の郭
公式HPと場所など
所在地: 〒901-2402 沖縄県中城村泊1258