座喜味城は「ざきみぐすく」「ざきみじょう」と読みます。
沖縄美ら海水族館に立ち寄ってから、今帰仁城跡(なきじんじょうあと)を見て、座喜味城跡を訪ねました。夕方に立ち寄ったので、夕方の風景になっていますが、それはそれは綺麗でした。
小高い丘の上にあり、やはり後ろ側は断崖絶壁です。
城としては小さめですが、とても綺麗に整備されています。
今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡のいずれもジブリの天空の城ラピュタ感が満載でした。
リュウキュウアカマツ(琉球赤松)が多く植わっています。沖縄本島は北部と南部とで土が異なるため、琉球赤松をそのまま南部に持っていっても育たないそうです。
世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成要素
2000年11月30日、日本で11件目の世界遺産として登録されました。
- 今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
- 座喜味城跡(ざきみじょうあと)⇐ここ
- 勝連城跡(かつれんじょうあと)
- 中城城跡(なかぐすくじょうあと)
- 首里城跡(しゅりじょうあと)
- 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
- 玉陵(たまうどぅん)
- 識名園(しきなえん)
- 斎場御嶽(せーふぁうたき)
歴史
築城家として名高い読谷山按司護佐丸が築いた城です。
15世紀初頭、日本、中国、東南アジア諸国との交易を通して繫栄した時期に築かれたと言われます。
標高120m余の丘にあり、最も高いところからは読谷村のほぼ全域を眺望できます。
護佐丸(ごさまる)(生年不明-1458年)は、15世紀の琉球王国(中山)の按司です。恩納村出身とされます。
第一尚氏王統建国の功臣です。尚氏6代の王に仕えましたが、晩年に謀反を疑われて自害します。
1458年8月に護佐丸・阿麻和利の乱が勃発しますが、近年では、忠臣護佐丸、逆臣阿麻和利という構図の再評価が進んでいます。
座喜味城跡の見どころ
座喜味城は、15世紀の初頭築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中山尚巴志の北山城攻路に参戦、北山攻路後は戦後処理のため一時北山城にとどまったといわれ、その間に座喜味の地へ築城を開始したという。城跡は座喜味部落北側の小高い金、標高120m 余の名護層からなる台地を石灰岩の切石積で取り囲んで築かれており、城は2つの部からなる連郭式の形態になっている。城郭内の面積は約4,012.51㎡で、沖縄のグスクとしては中規模である。
この城には一の郭と二の郭にアーチの門がそれぞれ一つずつ造られているが、アーチ石のかみ合う部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめられており、他のグスク等には類例がみられない。このことから座喜味城のアーチ石門が現存するアーチの沖縄で最古のものと見られている。
座意味城跡は1972年の本土復帰に伴なって国の史跡に指定され翌年の10月から沖縄県ではじめて史跡整備事業が文化庁と県の補助を受けて開始された。整備事業に伴う遺構発掘調査がなされ成果を上げた、出土遺物は、グスク系士と須恵器が少量、中国製陶磁界や古銭などがあり、これらの出土品中最も多いのは中国製の青磁と陶器で、これらの中国陶磁からみると、15世紀から16世紀までのものがみられることから、座喜味城は護佐丸が1440年に中城城へ移った後も使用されたと考えられる。
遺構については一の郭の北側に間口16.58m奥行14.94mの石組が発掘され、この中に建物が建っていたと思われる。しかし瓦等は出土しない事から屋根は板葺か茅葺の建物であったと推定され、またーの郭内の南側では城壁を作る以前の柱穴群も発見され、出土遺物からそれほどの時代差はないものの、一の郭内において2つの時期の遺構が確認された。
城跡は第2次大戦において、一の郭内に日本軍の高射砲陣地が築かれ、戦後も米軍のレーダー基地が建設されたが、整備の始まった翌年返還された。城壁は1982年に修復を完了した。城壁の上に立つと首里・那覇をはじめ本島西側本部半島や東支那海に浮かぶ慶良間諸島・久米島・伊江島・伊平屋諸島が眺望出来る要害の地にある。
座喜味城跡の案内板
二の郭への石造アーチ門
一の郭への石造アーチ門
礎石建物跡と寄進灯篭
城壁
場所など
所在地: 〒904-0301 沖縄県中頭郡読谷村座喜味7086