豊臣秀吉の「墨俣一夜城はなかった」という研究結果
過去からのイメージなどで、史実とは異なりつつも、世間一般的に流布されている「史実」というものがある。
豊臣秀吉の「墨俣一夜城」がそうだという。織田信長美濃攻めの際、豊臣秀吉が墨俣に一夜にして城を築き、美濃攻略の端緒を開いたという話である。
この「一夜城」の存在は、現在の研究ではほぼ全面的に否定されているのだそうだ。
約415年前に海を渡った「日本人奴隷」
ポルトガル国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさんと、東大史料編纂所の岡美穂子助教が、メキシコ国立文書館に残る異端審問記録から、約415年前の1597年(安土・桃山時代)に日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかったという。
「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土・桃山時代
審問記録には、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。
ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。
ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。
日本にやってきた奴隷は織田信長の弥助が有名である。
一方で、日本人奴隷の話は聞くことがない。だが、日本史などでは教えらえることはないが、日本人奴隷というのは意外と多かったのではないかと思われる。
今回の発見は、そうした疑問の中から見つけ出されたものに違いない。
歴史の中には、まだ、埋もれた真実がたくさん眠っている。