覚書/感想/コメント
シリーズ第三弾。安政二年の暮れから、年が明けて安政三年。
玄武館の同門、酒井栄五郎が御側衆の父・酒井上総守義宗に呼ばれ長崎に出来た海軍伝習所に行かないかといわれる。座光寺藤之助為清や文乃の説得により、行く気になった栄五郎だが、奇しくも藤之助に老中首座堀田正睦から長崎行きの命が下る。
この長崎行きには堀田正睦の重臣・陣内嘉右衛門達忠も加わっている。陣内嘉右衛門には堀田からの密命があるようだ。
それにしても、藤之助に長崎行きの命が下ったのはなぜなのか?そしてどんな役目が待っているのか?その一端は本書でも見られるが、どうやら、次作以降への持ち越しとなりそうだ。
旅の途中で、陣内嘉右衛門達忠が「そなたの足で異郷の地を踏む時がやってくる。それも遠い日ではあるまい」といっている。ということは、藤之助が異郷の地を踏むことになるのだろう。
佐伯泰英氏は他のシリーズで主人公に異郷の地を踏ませている。一つは長崎が舞台の「長崎絵師通吏辰次郎」シリーズ。もう一つは「古着屋総兵衛影始末」シリーズだ。
時代小説の場合、江戸に住む主人公、それも旗本や御家人が海外へ行くというのは、設定上かなり難しい。
江戸時代も後期になり、海外との密貿易をしていた西国大名の家臣というのならあり得ない話ではない。これは商人の場合だが、北陸の銭屋五兵衛や漂流した大黒屋光太夫の例もある。
だが、いずれも商船海路が開けた地方での話で、太平洋沿岸の諸藩では難しい。ましてや、江戸にいる旗本や御家人には無理な話だ。
これが比較的行きやすくなるのが、本シリーズの舞台となる幕末である。実際、本作の数年後、勝麟太郎はアメリカへ渡っている。
だから、異郷の地を旗本や御家人が不自然なく歩かせることが出来るのは、この時代以降しかない。
本作も主人公が異郷の地を踏みそうな感じであるが、それが次作なのか、それ以降なのか…。
「異郷の地」という言葉が出たことで「長崎絵師通吏辰次郎」シリーズや「古着屋総兵衛影始末」シリーズを思い出させられたが、もうひとつ、本作で思い出すシリーズがある。
それは、「酔いどれ小籐次留書」シリーズだ。佐賀藩が登場し、「葉隠」の二文字が躍ると、やはりこのシリーズが思い出される。
さて、長崎には勝麟太郎や榎本釜次郎といった幕末を彩る才が集まっている。彼らと藤之助がどのような交わりを持つのかが次作以降の楽しみである。
そして、一作目から続くおらんの追跡。前作で唐人船の爆破とともに消えたおらん。だが、それまでの危機に対する鋭い勘を考えると生きていると思える。果たして、長崎にそれらしい姿があるのだが…。そこは、陽炎のような女であるおらん。簡単には姿を現わさない。
内容/あらすじ/ネタバレ
安政二年(一八五五)の暮れ。時代は変化し、幕府を震撼させる出来事が次から次へと起きていた。異国の砲艦の響きは雷鳴の如く轟いている。座光寺藤之助為清は家臣全員に朝稽古を命じていた。交代寄合として禄を食んできた座光寺家が奉公する時が来たのだ。
その朝、藤之助が玄武館にはいると見知らぬ武芸者が道場の真ん中に立ち、高弟の一人佐和潟清七郎が倒れていた。武芸者は熊谷十太夫。左一本の片手突きを得意とするのは、まるで大石進の再来だ。
玄武館だけでなく、斎藤弥九郎の錬兵館、桃井春蔵の鏡新明智流も襲われたという。
藤之助が熊谷十太夫を退けたが、佐和潟清七郎はその日亡くなった。
この熊谷十太夫は藤之助に敗れた後、中西派一刀流の道場を訪ね、師範の井上源之丞を即死させていた。
これ以上の凶状を重ねさせないためにも藤之助は動くことにし、巽屋左右次を訊ねることにした。それを聞いて、酒井栄五郎が同行するという。道々、栄五郎は御側衆の父・酒井上総守義宗に呼ばれ、長崎に行かぬかといわれたという。長崎にできた海軍伝習所にいかぬかというのだ。栄五郎は迷っている風である。
大晦日も玄武館では稽古が続いた。藤之助は久しぶりに千葉栄次郎成之と稽古した。
年が明け、藤之助と栄五郎らは築地に出来たという講武場を見学しに出かけた。直新影流を伝承する男谷精一郎が頭取をしている。折しも、講武場では門弟を指導する助教の選抜をしていた。
藤之助は男谷精一郎の誘いを受け、男谷門下の本目虎之助と稽古をすることになった。
この翌日、座光寺家に幕府の使いが来た。呼ばれた先には老中首座堀田正睦がおり、他の老中もそろっていた。後ろには見知った顔がある。陣内嘉右衛門達忠だ。
言い渡されたのは、明後日江戸湊を出帆する江戸丸に搭乗して長崎へゆけというものだった。詳細はわからないものの、座光寺家を試しているのかもしれない。
長崎行きには酒井栄五郎も一緒だ。そして、陣内嘉右衛門達忠も同行することになっていた。
他に旗本御家人の二男三男が集められていた。酒井栄五郎を含めた旗本御家人の二男三男の十三人は海軍伝習所の候補生である。第一期生の内、三分の一が落伍し、その補充要員。
だが、全員が伝習所に入れるとは限らない。抜群の体力、知力、適応力を持ったものしか入所が許されないのだ。
藤之助は入所候補生というわけではなかった。陣内嘉右衛門は剣術教授方の一人として推薦したという。
船の旅で、一人命を失い、紆余曲折があったものの、残りの十二人が長崎の地に立った。最初の関門は突破した。長崎では勝麟太郎らが待っていた。
栄五郎らが早速講義を受け始める中、藤之助には特にすべきことがなかった。そうしたなか、唐人に襲われた。
長崎にいる間、藤之助は陣内嘉右衛門と同行することが多かった。嘉右衛門としては藤之助に長崎を一日も早く理解させる目的があるようだ。
この日も嘉右衛門に従って長崎の町年寄と会うことになった。藤之助と嘉右衛門は高島了悦の屋敷に入り、そこで藤之助は高島玲奈と出会った。
この長崎に、どうやらおらんとおぼしき女がいることが判明した…。
本書について
佐伯泰英
風雲 交代寄合伊那衆異聞3
講談社文庫 約三二五頁
江戸時代
目次
第一章 左片手突き
第二章 講武場の鬼
第三章 伝習所候補生
第四章 カステイラの味
第五章 鉈と拳銃
登場人物
座光寺藤之助為清(=本宮藤之助)
酒井栄五郎…御側衆酒井上総守義宗の倅
佐和潟清七郎
新太郎…清七郎の倅
都築鍋太郎
上野権八郎
強矢亮輔
小野寺保
熊谷十太夫
甲斐屋佑八…文乃の父
お桂…文乃の母
義一郎…文乃の長兄
男谷精一郎
本目虎之助…男谷門下
伊庭軍兵衛
丹波直忠…大目付
遠山安芸守宗鶴…大御番頭
堀田正睦…老中首座
陣内嘉右衛門達忠…堀田家の重臣
平井利三郎
亀田布嶽
出木漂堂
滝口冶平…主船頭
塩谷十三郎…御家人の次男
時岡吉春…旗本小普請の三男
一柳聖次郎…御小姓御番頭の次男
能勢隈之助
藤掛漢二郎
勝麟太郎
榎本釜次郎
川村修就…長崎奉行
永井尚志…海軍伝習所総監
矢田堀景蔵
利賀崎六三郎…佐賀藩千人番所御番衆組頭
上田寅吉…豆州戸田の船大工
グラバー…武器商人
高島了悦…長崎の町年寄
高島玲奈…了悦の孫娘
椚田太郎次…乙名
老陳…黒蛇頭の頭目
おらん