覚書/感想/コメント
「吾、器に過ぎたるか」改題
主人公となった大原幽学という人物は初めて知った。二宮尊徳同様に農業に関係した人物である。
二宮尊徳が農業経営の権威とすれば、大原幽学は共産主義的農業経営実践者とでもいうべき人らしい。
人の人物となりは本書の端々にちりばめられているが、本書は大原幽学の人物を若き日から、その活躍ぶりを描いた物語ではなく、八州廻りににらまれて、長い裁判に巻き込まれてからの期間だけを扱っている。
そのため、人物のなりを簡単に本書から抽出してみた。
大原幽学はまともには学問をしておらず、無学文盲に近い。
大原幽学は無学文盲に近いが、聖人であることを実践したただ一人の日本人だった。損得を物差しの基準におかず、身を捨てて実践する。無私無欲の人物。当然そんな人間は理解されない。
朱子学では聖人になるための方法を教えている。学問をする者は聖人ならなければならない、もしくはなるための努力をしなければならない。だが、この実践がすこぶる難しい。大原幽学は意識はしていないものの、この実践をしたただ一人の日本人だった。
大原幽学の実践したことは様々である。例えば農地の改良。
農地の境界線となっている畦道を整備し、農地を交換すれば耕作地が増え、農作業もやりやすくなる。だが、これは江戸の当時にあっては絵空事である。これをやり遂げた。
また、教育法。大原幽学の教法に子供を教育する預り子の制がある。七、八歳から一五、六歳まで、扶持を送って他人の家に預け、自分も他人の子を預かるという教育法である。
一種の共産主義社会の様な物であった。この思想は身分制度を前提とする幕府体制においては危険な思想である。なぜなら、この思想の行き着く先は四民平等だからである。
だが、大原幽学の思考はそうならない。大原幽学は百姓は性来が”下愚”で、武士は”賢人”とし、武士を神聖化している。明らかに矛盾しているのだが、大原幽学の中では一貫しているようだ。
他にも色々書かれているので、その点は本書で補足していただきたい。
さて、本書の中で重要なのが、江戸時代の身分制度である。大原幽学の場合、浪人と称している。
浪人は御家(藩)を致仕したという証明、もしくは旗本・御家人、大名の家来の厄介(伯・叔父、もしくは弟)の証明がなければ、正しくは浪人とは認められなかった。だから、浪人といっても、氏素性の知れぬ自称浪人が少なくなかった。
これが、本書の一つのキーとなっている。
雑学的だが、江戸にはいわゆる裁判所が八つあった。江戸の者のための南北両町奉行所。関八州の者のための両公事方勘定奉行所。寺社関係者のための四寺社奉行所。
最後に、物語のはじめに八州廻りが登場する。この八州廻りを主人公とした小説を佐藤雅美は書いている。併せて読まれると、八州廻りとはなんぞやというのがわかると思う。
また、飯岡ノ助五郎や勢力富五郎などの、いわゆる「天保水滸伝」に登場する人物たちの名が登場する。これについても小説があるので、併せて読まれるとよいと思う。
八州廻り→佐藤雅美:「八州廻り桑山十兵衛」シリーズ
天保水滸伝→佐藤雅美:「無法者(アウトロー)」
内容/あらすじ/ネタバレ
常州新治郡土浦本町の顔役・佐左衛門を関東取締出役、通称八州廻りの吉岡静助が訪れた。
吉岡が訪れた理由はこうだ。下総香取郡長部村に大原幽学という浪人が長逗留している。大原幽学は「中庸」の冒頭にある”天の命、之を性と謂ふ、性に率ふ、之を道と謂ふ”から”性学”と名付けた教えを教えているらしい。
さらに、大規模な普請をやって豪壮な居宅を作ったらしい。
性学というものを教え、外見上は至って質素だが、何やらいかがわしいことをやっているに違いない。そこで、長部村まで行って大原幽学の素性と、性学の実態、大普請でなにをしているのかを内々に探ってこい。
佐左衛門は身分を隠して大原幽学を訪ねた。その結果、特に問題がないように思われた。
だが、大原幽学が自称浪人で、なにか問題があっては八州廻りの落ち度になる。吉岡静助はそれを心配していた。だから、理由、口実を構えて江戸の勘定所に送りたいというのが本音である。
誰かを大原幽学に入門させて、問題がないかを探し出すことになった。だが、ここで入門すると見せかけて、強請まがいのことをしてしまったからややこしくなってきた。
そして、八州廻りが大原幽学を調べていることが明るみに出る。また、八州廻りは大規模な普請の結果建てられた改心楼にも狙いを定めたらしい。
江戸の勘定所での調べとなると、大勢でぞろぞろと向かわなければならなくなり、恐ろしく金がかかる。そうならないようにと長部村では手を打ち始めた。
だが、こうした努力もむなしく、江戸の勘定所での調べが始まった。審理をするのは、評定所留役・木村敬蔵、留役助・菊地大助。二人とも才幹のある人物である。
公事出入(民事訴訟)は長くなる。しかし、この大原幽学の一件は差出(送致)物で、吟味物(刑事物)である。お上が独自に判断をして結審すればよい。比較的短く終わる性質の物である。
しかし、この一件は長い時間がかかった。なぜ?
時は、ペリー提督が浦賀沖に姿を見せ、世間が大騒ぎをし始める頃である。
本書について
佐藤雅美
お白洲無情
講談社文庫 約四三〇頁
江戸時代
主人公:大原幽学
目次
第一章 事件の捏造
第二章 酷暑の木下街道
第三章 忠兵衛の覚書
第四章 炎天下の俄御白洲
第五章 騙し討ち
第六章 深い溜め息
第七章 留役木村敬蔵の逆襲
第八章 孫たちからの仕送り
第九章 千五百日ぶりの審理
第十章 この為、自殺する者也
登場人物
大原幽学
源兵衛…長部村組頭
遠藤良左衛門…名主見習
菅谷又左衛門
菅谷又右衛門
入野村の佐左衛門
佐左衛門…常州新治郡土浦本町の顔役、道案内
鏑木ノ仙吉…道案内
鏑木ノ栄助
忠左衛門
松岸ノ半次
重五郎
木村敬蔵…評定所留役
菊地大助…評定所留役助
中山誠一郎…八州廻り
吉岡静助…八州廻り
関畝四郎…八州廻り
渡辺園十郎…八州廻り
酒井助三郎…清水家の地方役所、長部村担当
磯部寛五郎…田安家代官
高松彦七郎…御本丸御小人目付