覚書/感想/コメント
寺門静軒は江戸時代の儒学者。江戸後期に生まれる。江戸駿河台に克己塾を開き、著書の「江戸繁昌記」がベストセラーとなるものの、風俗を乱すものとして水野忠邦による天保の改革によって、江戸追放となり、各地を流転する。これを審議したのが鳥居耀蔵だった。
本書はその「江戸繁昌記」の内容を解説しながら、静軒の人生を紹介している伝記小説である。
「江戸繁昌記」は巻数でいうと一巻から五巻まであるようで、本書では主として、一巻と二巻を紹介している。とくに一巻目の比重が高い。恐らく、一番面白いのが一巻なのだろう。
この「江戸繁昌記」は漢文調で書かれているので、漢文調のままだと読みづらい。そこで、本書では現代文訳も載せており。両方をあわせて読むことが出来、読みやすくもなっている。
戦前から活躍していた歴史小説、時代小説作家はこうした漢文調や古文調のものを文中に織り込む場合、原文をそのまま載せ、注釈や現代文訳などを付けることはなかった。だが、平成に入ってから活躍している歴史小説、時代小説作家はこうした注釈や現代文訳をつけることが多い。
原文そのままだと読みづらいということもあるだろうが、読めないという人もいるので配慮しているという側面もあると思う。
時代の流れとともに、その時代の教育がどういうものだったかがが、こうしたところからも伺えるのが面白い。
内容/あらすじ/ネタバレ
寺門静軒は肘枕で洒落本をめくっていてひらめくものがあった。漢文はいかめしい、だが、この漢文で身辺の卑俗な出来事を表現するということが百年前の享保の頃試みられたことがある。意外に、そこに滑稽や諧謔というものが滲み出た。そこで、洒落本を漢文戯作に「翻訳(ヤキナオシ)」したらどうだろう。
題は、江戸という大都会のありさまを書いた「江戸繁昌記」。これだ。
水戸から那珂川をさかのぼることおよそ五里のところに石塚という村がある。広大な田畑と屋敷を有する寺門という姓の郷士がいた。この家系に生まれたのが静軒だが、妾の子である。だから常陸石塚の縁者は知らない。
この縁者の中に異母兄の寺門弥八郎勝躬がいる。勝躬は軟弱で享楽にふけるところがあり、宮仕えに耐えられなくなり、水戸家を出奔している。
その勝躬が静軒をたずね、金の無心をしてきた。静軒は父が買ってくれた御家人株を売り、その半分を兄に貸し与えた。これで、静軒は浪人となる。
剣術の腕は今ひとつ。それに剣術で食うのは学問で食うより難しい。そこで静軒は学問で身を立てようと腹をくくっていた。だが、学問でも生計を成り立たせるのは難しかった。
静軒は江戸の繁栄の裏に貧困ありで、矛盾に満ちており、矛盾を矛盾として認めなければ江戸の繁栄、繁華、繁昌の様子を描くことが出来ないことを知りながらもそれを認めたくなかった。その一方で、「江戸繁昌記」では儒者を論難罵倒しつくした。
本を書きながら、静軒は狙いがぴたりと当たっていることを確信していた。漢籍を読む力のあるものなら、この著者は何ものかと注視するにちがいない。
そう思っている中、兄の勝躬が水戸家で新政が行われるという話をしてきた。
徳川斉昭は英邁の君だという。静軒はこれこそ天の采配だと思った。さっそく兄に仕官するための口利きをしてくれと頼む。
だが、水戸家には水戸学という独特の学問があり、静軒のような儒者は必要としていなかった。そのことを知らずに静軒は必死の仕官運動をした。だが、結果的には静軒にとって屈辱的なもので終わった。
仕官に失敗した直後に今度は兄が嫁の話をもってきた。押し切られるかたちで静軒は結婚することになった。
静軒は「江戸繁昌記」を自費出版することにした。版元も出版を渋る「江戸繁昌記」だったが、インテリのプライドを揺すぶり、一冊二冊と売れていった。
この売れ行きのよさに、別の板元から出版の話が来た。「江戸繁昌記」の第二篇を頼むというのだ。
さっそくに執筆を開始して出来上がったが、板元はおもしろくないという。第一篇のときのような毒がないというのだ。それは静軒も感じていた。そこで書き直し、第二篇を出版することにした。二篇も出足は好調だった。
本書について
佐藤雅美
江戸繁昌記 寺門静軒無聊伝
講談社文庫 約三九〇頁
江戸時代
目次
此の狂奔、彼の狂奔
人間呼んで在家の僧
窈冥中、記紋自ら顕はる
小田原坊の犬
水戸の新政
水戸家上屋敷門前の屈辱
すすり泣き
洛陽の紙価を高める
異邦人静軒
駒太郎兮駒太郎
聴け、聴け、聴かずんばあるべからず
二三子、其の人を錯ることなかれ
叫声す、静軒、今日実に死せり
いつでもこい
先生は宜しく老ゆべし
登場人物
寺門静軒(弥五左衛門)
寺門弥八郎勝躬…兄
平兵衛…丁字屋主
雁金屋次兵衛…板元
小左衛門…板元
東条琴台
北山緑陰…師匠
小浜大海…兄弟子
徳川斉昭
山野辺兵庫
川俣七郎右衛門
水野越前守忠邦
鳥居耀蔵