覚書/感想/コメント
文禄・慶長の役の無惨な姿を、石工衆を率いる地侍・大森六左衛門らの目を通し、豊臣秀吉に筆誅を加えた作品。文禄・慶長の役とは豊臣秀吉による朝鮮侵略のことである。
物語は文禄の役の六年前から始まる。確かに豊臣秀吉に対しては筆誅が加えられているが、「徹底的に」という印象は受けなかった。だが、豊臣秀吉を単なる立志伝中の人として捉え、崇め奉る時代は過ぎ去ったのだろうと感じた。
当時の豊臣秀吉の評判は必ずしも良くはなかった。特に、畿内では秀吉の厳しい専制支配の結果評判が悪く、落首が出た。
「大仏のくどくもあれや 鑓かたな くぎかすがいは子宝めぐむ」
「村々に乞食の種もつきずまじ しぼりとらるる公状の米」
「末世とは別にはあらじ 木の下の 猿関白を見るにつけても」
従来、小説の中では悪く描かれることの少ない秀吉であるが、多大な賦役を課す為政者の評判がいいはずがない。そろそろ豊臣秀吉像というのも再考すべき時期に来ているのかもしれない。
物語の最初の方で豊臣秀吉が征明を企てた背景をこう述べている。『豊臣秀吉がなぜ自分を「世界の王」と外交文書でのべ、征明を企て、手初めに朝鮮侵略に乗り出したのか。その背景の原因を一口でいえば、それまで日本の統治者として東アジアの国際秩序を尊重し、外交に当ってきた室町幕府が瓦解したからだ。』
室町幕府というたがが外れたことによって、豊臣秀吉の暴走が始まったということをいいたいのだろうか。
豊臣秀吉は最初から権力に取り憑かれていたとしている。そして、征明を企てることの豊臣秀吉は権勢欲の権化、誇大妄想者と化し、人間としての腐臭を放つまでになっていたと厳しく書いている。
『どの国でもたわけを指導者として上にいただくと、ろくなことが起きない。世界の各国の歴史をみればそれは明かで、その愚行はいまもつづけられている。
豊臣秀吉のサクセス・ストーリーが、経営者の聖典のように読まれている。不況のとき、それはなお強調される傾向がうかがわれる。
だが、その人間としての愚かしさも併せて読まなければ、なんの意味もあるまい。経営者がバイブルとして学ぶべきは、秀吉ではなく、歴史の中にいっぱいあろう。』
本書で弾劾しているのは、秀吉だけではない。この当時、ごく当たり前のように人身売買が行われていた。ポルトガルなどを代表とした国々のそれは有名であるが、日本でもそうしたことが行われていた。
バテレンの追放というのはこうした流れの中で捉えられている。豊臣秀吉は自分を日輪の子とうぬぼれるところからくる権勢欲がある。これは神格化を図った信長のそれを受け継いでいた。
一方でバテレンは神仏の崇拝を否定する。このままでは専制君主の権威や自分の神格化も否定される。この一環でバテレンの追放令がだされたというのだ。
この追放令の中には、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買の禁止を命じる一条がある。日本人奴隷の売買は、種子島にポルトガル人が漂着した頃からはじまっていた。
本書では、大森六左衛門の家人である宮田以蔵という人間が身を落として遊女屋の主となり、果ては人買いにまで成り下がらせることによって、このことを描いている。
さて、物語は、大森六左衛門と石工衆の苦闘が中心になるのだが、これに家人である蓮根十蔵と六左衛門の娘・於根の恋と戦によって引き裂かれる悲劇を交え、中川式部という新陰流の達者が豊臣秀次との恩讐を超えた生き様を加えたり、宮田以蔵に買われたお宮の心の変化や生き別れた弟・船虫への愛慕を描いて深みを増している。
こうした様々な人物の中にあって、強くスポットが当っているのは実在の人物である芦浦観音寺の賢珍、詮舜の兄弟。兄弟の軌跡が全く記されてこなかったのは、巧みな韜晦のせいもあるが、「観音寺文書」の研究が十分に行われていないからだという。
本書では文禄・慶長の役にまつわる事柄だけでなく、様々な歴史のエピソードが書かれているのが興味深い。
そのいくつかを紹介してみたい。
まず、『当時日本は、世界最大の鉄炮生産国、輸出国になっていた。』という。
鉄炮の伝来は天文十二年八月の種子島に漂着したポルトガル人によるというのが通説で、この根拠となるのはこれより六十三年後の南浦文之の「鉄炮記」の記述によるのだという。もっとも、澤田ふじ子氏は疑問を持っているようだ。
この通説の翌年には交易のために日本へ向かおうとしていた唐船が鉄炮をもっていたという。そして、李氏朝鮮王朝は明政府に鉄炮をもっていなかった日本が最近は大量にそなえていると報告し、天文十六年には中国福建省の密貿易者が日本人と交易して鉄炮の撃ち方などを教えていたようだ。
次に、豊臣秀吉と異父弟妹とされた秀長とあさひは実の弟妹であることが確認されたという。これには異説がありそうだが、こういう研究発表があったのは興味深い。
さらに、上泉伊勢守信綱の逸話。永禄年間(一五五八~七〇)。舞台は尾張。織田信長の動きが活発になっていた頃、信綱が名刹妙光寺にもうでた直後に事件が起きた。
牢人が村人に追いつめられ、子供を人質に小屋に逃げ込んだ。黒澤明監督「七人の侍」で描かれるワンシーンと同じなのだが、この映画自体がこのエピソードを元にしている。一度ご覧になることをおすすめする。
さらにさらに、戦国時代には、戦場に時宗の僧侶を連れるというのはごく当たり前に行われていたようだ。使者の弔い等々のためであるという。こうした僧侶の姿というのは、なかなか小説には登場することがないので、おやっと思った。
文禄・慶長の役の中で必ず語られるのが「降倭」である。朝鮮軍に投降、同胞軍にそむいた日本兵は降倭といわれた。こうした人物は相当数いた。
有名な人物に沙也可(さやか)という武将がいる。
様々な人物の名が上がっている。小説家も想像力をたくましく、色んな人物の名を挙げている。ここでは「雑賀」(さいか)が訛ったものではないかとしている。
内容/あらすじ/ネタバレ
天正十四年。聚楽第御構をあとにして、大森六左衛門は家人の蓮根十蔵、奈倉庄九郎、宮田以蔵と石工達をつれ近江の武佐に戻る所であった。大森六左衛門は近江八幡武佐村の人々から五位の異称・大夫さまと呼ばれている。祖先が五位に叙せられたからである。
前年に羽柴秀吉は関白につき、数日前に太政大臣となって豊臣の姓を授けられていた。
牢人とわかる男が河原で両手をついて詫びていた。娘が餅を盗んだというので道商人が詰め寄っているのだ。この様子を六左衛門らが見ていた。
大森六左衛門が率いている石工達は芦浦観音寺第八世寺主賢珍の聚楽屋敷普請に召された人々である。
河原ではいつの間にか岩吉と名乗る男が牢人に詰め寄っている。だが、この岩吉という男は外見に似合わない機転を利かせた。
六左衛門は牢人親娘と同行することにした。牢人の名は中川式部、娘は加世という。この一行を六左衛門の娘・於根が出迎えた。
中川式部はしばらくの間、大森家の厄介になることになった。その間、大森家の家人達に剣を教えることになった。
中川式部は上泉伊勢守信綱から新陰流を学んだ佐藤直冬という人物から新陰流を学んだという。
城から羽柴秀次の使者として田中吉政が来た。秀次はやがて豊臣秀次と名を改める。禄高は四十三万石。補佐役に山内一豊、一柳一介、田中吉政らがいる。
中川式部は秀次に怨みがあるという。天正十三年。秀吉は甥の秀次とともに十万の軍を率いて雑賀衆と根来寺を攻めた。中川式部は紀州根来寺につかえており、そのときに妻を殺されたのだという。
田中吉政は六左衛門に仕官を勧めに来ていた。だが、即座に六左衛門は断った。予想されたこととはいえ、田中吉政も引っ込みがつかない。
田中吉政はかつて行われた太閤検地の見直しを匂わせた。太閤検地の時、六左衛門の武佐村は優遇措置を受けていたのだ。匂わせた上で、六左衛門が仕官が叶わないなら、代わりの者を仕官させよと行った。
六左衛門は悩んだ挙句、家人の中から大隅左内を仕官させることにした。これを聞いて悔しがったのが宮田以蔵であった。
左内は吉兵衛と名を改め、秀次の近習として仕官することになった。
芦浦観音寺第八世寺主の賢珍の所に楽長次郎が訪ねてきていた。二人の間で交わされたのは、乙御前釜のことだった。豊臣秀吉は先頃、対馬の宗義調に、朝鮮に入貢させるように命じていた。
天正十五年九月に聚楽第御構が完成した後、大森六左衛門はほとんどを武佐村の屋敷で過ごした。
六左衛門は賢珍と話をしていた。この中で、湖国随一の船造りの孫次郎が秀吉に登用されたという。二人にはかすかに見えるものが次第に形を成そうとしているように感じられた。
宮田以蔵が逐電した。
二年後、以蔵は町人の風体となり、万里小路二条の南に住んでいる。以蔵には疑問があった。豊臣秀吉の軍勢が小田原に向けて京を発っている。だが、秀次領内の大森六左衛門らは小田原攻めに参陣していないと聞いている。
以蔵は以前から懇ろになっていた梅里と一緒に十二屋と名付けた遊女屋を営んでいる。
以蔵は以前河原で見た岩吉を探して、十二屋の手伝いをしてもらうことにした。岩吉は根っからの傾奇者ではなかった。家は丹波屋という炭屋で、千利休のところにも出入りが許されているという。
人買いの宗佐からお宮という女を以蔵は買った。
天正十八年北条家が降伏。事実上、秀吉の日本統一が実現した。
翌年、千利休は関白秀吉の勘気をこうむり、自刃する前の約七ヶ月のうちに百回以上の茶会をひらいた。自分の死期を自覚した意志的行為としか考えられない面をはっきりと備えていた。
当時の秀吉は権勢欲の権化、誇大妄想者と化し、人間としての腐臭を放つまでになっていた。朝鮮通信使への無礼だけでなく、国王宛の書簡は征明の決意をいい、先導を要求している。書簡はかれの傲慢が満ちている。
秀吉をいさめるべき弟・秀長は没していた。
天正十九年。関白秀吉は朝鮮出兵のための大船建造を命じていた。
宮田以蔵は関白が明国征服のために朝鮮を攻めるなら、その時に乗じて、人買いをするつもりでいた。大森六左衛門が石工達をつれて肥前に行くことになったら、頭を下げて帰参を願い出るつもりでいた。見せかけの帰参である。
秀吉は朝鮮への出陣準備を命じた。賢珍が六左衛門を訪ねてきた。石工を連れて肥前へ名護屋城の築城に携わって欲しいと頭を下げられた。
この六左衛門が率いる一団に宮田以蔵は手下をつれて現われた。六左衛門の家人で、六左衛門の娘・於根と結婚することが決まっている蓮根十蔵は以蔵の帰参に疑いの目を持った。
名護屋城の普請は一般に天正十九年十月十日に開始されたと伝えられているが、前年の十八年から始められていた。この朝鮮侵略のときの日本軍の総勢は約三十二万といわれる。このうち約二十万が玄界灘を渡った。
天正二十年末に文禄と元号は変わる。
秀吉は関白の座を秀次に譲り太閤となっていたが、実権を譲ることはなかった。政権の樹立で五奉行制をしいたが、これを譲らなかったのだ。
書状が出され、この度の苦役をきらい、逃げ出す者がいれば、一族郎党に及ぶまで成敗するという。
その頃、宮田以蔵は六左衛門の目を盗んで、この地でも遊女屋を始めていた。朝鮮侵略が始まった暁には、買ってきた女を見定め京へ送るための中継基地にもなる。
こうした中、以蔵に連れられて来ていたお宮には、六左衛門らと接する内に心境の変化が起きていた。
六左衛門らも小西行長の第一軍に従って海を渡ることになった。
石工達が朝鮮へ渡るのは、駅城を普請するためである。釜山から漢城まで十二、三の駅城を普請することになるという。蓮根十蔵は己の覚悟を心の中で於根に告げていた。
釜山では物見の兵が侵略軍の出現に気がついた。朝鮮のこの時の全域に配していた兵士の数は七千人でしかなかった。徹底した文治主義の結果、武人が軽くみられたのだ。また、この当時両班階級では党派間の争いに明け暮れており、侵略には無防備だった。
釜山城はわずか三時間で陥落した。
一般の人々まで手当たり次第に斬殺されており、その様子を見た蓮根十蔵や奈倉庄九郎らは、なんとなく気持ちがすさんでいくのを感じた。
翌日には小西行長らの第一軍は東莱城を襲っていた。宮田以蔵は東莱城の陥落を知ると、大森六左衛門らから離脱する決意をした。
さらに翌日には加藤清正らの第二軍が上陸。十八日には黒田長政らの第三軍が上陸した。
朝鮮国王らは北の開城に向けて落京したが、開城にいるはずの役人らはすでに逃亡しており、市民から礫を投げられる有様だった。
小西軍が上陸して二十日間、加藤軍は十六日間で、京城を無血で占領した。この後、日本軍は平壌城を無血で占領する。
日本国内では秀吉の生母が没した。これから秀吉の凋落が始まる。
朝鮮では陸軍の軟弱に対して、李舜臣に率いられた水軍が日本水軍を撃破し、補給路を断っていた。そして、朝鮮の各地で義兵が決起し始めていた。
日本軍は短期間で朝鮮半島を席巻したものの、抵抗が厳しくなり、明政府も援軍を派遣し、さらに長く伸びた兵站線のために、士気を低下させていた。
大森六左衛門らの一団は近江を発ってから約一年半、名護屋を後にして一年を経ていた。大森衆は黒田軍に守られながら石普請を行っていた。黒田軍を率いているのは戸田勘兵衛という。
この半年、六左衛門は石工衆の差配を蓮根十蔵や奈倉庄九郎にまかせ、二人の後見に回っていた。
黒田家の槍奉行組頭・佐野造酒之助が俘虜を連れて現われた。連れてきているのは一部だけだという。この一部を戸田勘兵衛が預り、残りを佐野が連れてくることになった。
俘虜の中に女が多数交じっており、戸田勘兵衛らが襲おうとしていることに気がついた大森六左衛門はこれを止めようとした。黒田家と大森衆のにらみ合いが続き、乱闘へ発展した。
味方同士の殺しあいで、生き残ったのは三十名ほどにすぎない。これを朝鮮の義兵達が囲んだ。
六左衛門は離反するしかなかった。
武佐村に太閤秀吉の命を受けた手勢が押しかけ、大森衆を成敗するという話が伝わってきた。留守を守る中川式部らは於根や村人を逃がす算段をする。村は焼かれた。武佐焼けとして伝えられている。
その頃、大森六左衛門に命ぜられて、蓮根十蔵は小宮元十郎や奈倉庄九郎らとともに荒れる日本海を渡ろうとしていた。だが、この途中で蓮根十蔵が海に投げ出され、これを助けに飛び込んだ小宮元十郎と一緒に海に揉まれてしまう。
二年後。奈倉庄九郎は大隅吉兵衛の屋敷にいた。武佐焼けの時に於根や中川式部らは大隅吉兵衛の所に逃げ込んできていたのだ。
本書について
澤田ふじ子
惜別の海
幻冬舎文庫 上中下約一二四〇頁
安土・桃山時代
目次
第一章 葦の館
第二章 蒲生野
第三章 天の甍
第四章 うたかたのまえ
第五章 夏の暦
第六章 利休百会
第七章 木像磔刑
第八章 戦国秋日
第九章 旅路の罠
第十章 石蕗の城
第十一章 暗い征路
第十二章 空虚な御陣
第十三章 離反の笛
第十四章 海底の旗
第十五章 遠き別れ
登場人物
大森六左衛門
於根…大森六左衛門の娘
蓮根十蔵
奈倉庄兵衛
奈倉庄九郎…奈倉庄兵衛の倅
弥助…石工頭
大隅左一兵衛
馬淵弥八
俵勘兵衛
中川式部
加世…中川式部の娘
小宮元十郎…松浦党
お秋
お鶴
大隅吉兵衛(左内)…大隅左一兵衛の倅
美津…大隅吉兵衛(左内)の女房
又市
伊右衛門…百姓
お竹…伊右衛門の孫
賢珍…芦浦観音寺第八世寺主
詮舜…賢珍の弟
桃田十兵衛…観音寺譜代の侍頭
楽長次郎
末松…長次郎の付き人
元蔵…陶工
宮田以蔵…大森六左衛門の元家人
梅里
お宮
岩吉
お葉
雪於
武蔵
宗佐…人買い
普明…坊主あがり
豊臣秀吉
豊臣秀次
田中吉政
戸田甚兵衛…黒田家家臣
佐野造酒之助…黒田家槍奉行組頭
(朝鮮側)
鄭撥…釜山の城将
李大丘…鄭撥の従僕
桂英淑
桂明淑…桂英淑の娘