「坂の上の雲」を補完する作品です。
乃木希典を扱った作品ですが、司馬遼太郎氏は乃木希典を軍人としては評価していません。
この評価は坂の上の雲でも徹底しています。
本書では次のように書かれています。
「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能に恵まれていた。」
本書は小説ではなく、自分の思考を確かめるつもりの覚書として書いています。
要塞
乃木希典は明治4年に23歳でいきなり陸軍少佐に任じられました。
戊辰戦争が終わり、従兄の御堀耕助に軍人を勧められてその気になります。
乃木希典は長州人でした。そして、吉田松陰門下閥の末席に系譜づけられています。
松蔭の叔父・玉木文之進は乃木家にとって濃い縁族でした。
この筋目の良さは無類と言って良いです。
そのうえ長州政界の三巨頭の一人である従兄の御堀耕助から大いに愛されました。
明治7年に休職を命ぜられて帰郷します。理由はよくわかりません。
四ヶ月後、陸軍卿の山縣有朋の副官となります。秘書役とでもいうべき役回りでした。
明治8年、熊本鎮台の連隊長心得に任命され、赴任します。薩軍との戦いです。
遭遇戦でしたが、敗走と負傷と軍旗を奪われました。
軍旗を奪われたことで乃木希典はいっそう悲痛になり死をこいねがいました。
この失敗があるにも関わらず乃木希典はこの陣中で中佐に進級します。
乃木希典の道徳的苦痛は終わらず、熊本城内で参謀の身でありながら、行方不明になることが3日続きました。
軍旗事件でその名が世間で知られ、自責は軍当局から逆に好意を持たれます。
帝国陸軍が軍旗を異常に神聖視したのは、おそらく乃木希典から始まったのでしょう。
この事件を境に、後年の精神主義者としての顔がもたげるようになります。
西南の役が終わり、東京に戻り歩兵第一連隊長になります。
熊本鎮台で同僚だった児玉源太郎も下総佐倉の歩兵第二連隊長になりました。
同じ長州人でしたが、藩閥の恩恵は薄く、下士官を4年やらされました。
才幹を認められ、西南の役では熊本鎮台の参謀として作戦のほとんどを立案します。
この二人の連隊の対抗演習が習志野で行われ、児玉源太郎が大いに破っています。
明治19年、38歳の乃木希典はドイツへ留学します。
これが乃木希典の性行、容儀、奢侈、日常習慣などを一変させます。
別人になって帰国したのです。
留学の同行者は川上操六でした。薩摩出身で児玉と並んで陸軍草創期における天才的戦術家です。
ドイツでやらなければならないのは参謀総長モルトケに師事することでした。
陸軍内部でも乃木希典が選ばれたのを不審におもう声が多く出ました。
乃木希典はドイツで制服に興味を持ち、帰国後は内でも外でも軍服で押し通しました。
明治34年に休職を命ぜられ、最も気に入っていた那須の別荘に移り、農人の生活に入ります。50代半ばに入ろうとしていました。
日露戦争の作戦計画を練っていたのは川上操六でしたが、明治32年に病没します。
後任の田村恰与造が引き継ぎましたが、日露戦争の直前ににわかに死んでしまいます。
後任に適任がいませんでした。
いるとすれば児玉源太郎でしたが、明治33年に陸軍大臣になっていました。
しかし児玉源太郎は著しい降等にもかかわらず参謀本部次長に自ら買って出て、田村の死と共に執務を始めます。
明治37年、日本はロシアと国交を断絶し、すぐさま海軍が旅順港外で戦闘行動を起こします。
これより少し前に那須にいる乃木希典に令状が届けられていました。
児玉源太郎は初動の作戦には猪突猛進の気概に満ちた者ばかりを選びました。
第三軍は編成されていませんでしたが、司令官候補として乃木希典がいました。
開戦の初動期を担当する野戦司令官としては選に漏れていたのです。
旅順要塞を攻撃する話が出てきたのは開戦後期間が経ってからでした。
それまで旅順を攻める案はありませんでした。
ところが海軍がそれを要請しました。旅順港内にロシアの旅順艦隊がいたからです。
大本営参謀本部はその要請を引き受け、これが乃木希典の巨大な不幸になります。
乃木希典は日清戦争の時に旅順を攻略していましたが、日本陸軍には近代要塞を攻撃した経験がありませんでした。
旅順を重く見ていなかったのです。
乃木希典が第三軍司令官として現地に赴き、参謀長としてつけられたのが伊地知幸介でした。
乃木希典の最初の不運は、旅順軽視論者が参謀長と副参謀長だったことでした。
乃木希典は現地に到着する前の広島で長男・勝典の戦死を知ります。
旅順についた乃木希典と伊地知幸介は旅順を正面から突破することでした。
海軍の東郷平八郎が海軍重砲を提供しての力攻めです。
海軍にしてみれば旅順を攻略してくれないと、バルチック艦隊との戦いが不利になりますので、必死で陸軍を援けました。
乃木の司令部は数日で旅順を取れると思っていました。
しかし、約150日を費やし、6万人の戦死者が出たのです。
最初の強襲の参加は5万7百人でしたが、わずか6日間で死傷者が1万6千人に上りました。
しかも一塁も取れませんでした。
第三軍司令部はようやく要塞の本質を知ります。
攻撃を再開し、ようやく要塞攻撃の正式の方式を取ります。
攻撃目標も変化し、二〇三高地を攻撃目標の一つに加えました。
二〇三高地の戦術的価値を発見したのは海軍でした。
ですが陸軍は動いてくれません。大本営の山縣有朋らは、海軍の戦術に理解を示し、第三軍の固執が理解できませんでした。
その旨を児玉源太郎電報し、児玉もそうだと考えて第三軍幕僚の翻意をうながしましたが、自説を譲りませんでした。
大本営陸軍部内はほとんど呆然としました。
やっと二〇三高地に目を向けるようになったのは、麾下の師団参謀長が二〇三高地なら取れそうだと言ったからでした。
しかし二〇三高地は取れず、死者は4千7〜8百人でした。
ロシア側も二〇三高地の重要性に気がつきます。
乃木希典は補充を要請しますが、補充はされませんでした。
すでに第三軍幕僚は全陸軍の参謀から札付きの無能と扱われていたのです。
旅順が陥ちないことで、乃木希典は神経が憔悴していました。
乃木と伊地知は二〇三高地に攻撃の主眼を置かず、頑固に最初の強襲攻撃の方針を捨てませんでした。
児玉源太郎が乃木希典を庇ってきた年月は四半世紀を超えていました。
児玉源太郎が自ら第三軍に乗り込もうとしたまさにその時、二〇三高地を獲ることができました。
児玉源太郎は乃木希典に会い、第三軍指揮の全権を任せるよう迫りました。そして、指揮権は児玉源太郎に移りました。
児玉源太郎の指揮にはいって、ようやく山を獲りました。
旅順港が、すべての軍艦が見下ろせました。
ロシアの諸艦は撃沈され、旅順艦隊は5日で失うことになりました。
児玉源太郎二〇三高地陥落後四日目には、満州の総参謀長の本務に戻っていました。
そして乃木希典をして永久に歴史にとどめさした水師宮の会見が行われたのです。
乃木の名は世界を駆け巡り、日本武士の典型としてあらゆる国々に記憶されました。
腹を切ること
乃木希典は明治45年9月13日、自邸で自害します。
妻静子も同時に死にました。
乃木希典は長州人でしたが、静子は薩摩藩士の娘でした。