覚書/感想/コメント
北の陸奥と南の肥薩という両極を旅し、そして、司馬遼太郎氏の地元を最後におさめている。私が惹かれる記述が多かったのは、「陸奥のみち」である。
陸奥のみち
明治政府が東北の面倒を見なかった、飛び越えて北海道の開拓に熱を上げたのだが、太平洋岸の陸奥には例えば北欧諸国などのような国土経営法をもって東北経営をするという構想が政府になかったのかという疑問はもっとものような気がした。
岩手県を主体とする南部の広さが四国四県に匹敵する。南部八戸藩は二万石とはいえ、領域は西日本の一国に当たるだろうと思われるが、それだけの広さにもかかわらず、二万石である。
大阪府は、摂津、河内、和泉の三国が旧分国になるが、あわせるとざっと七十万石だった。水田の適地で、気候も向いていたからだ。
一方の南部は稲の栽培には水の条件が悪い上、元来南方植物の稲を寒冷地に植えるのは無理がある。
古来、日本ではただ米を作っていないというだけで、狩猟集団の多く住んでいた地域の人間を奇怪な人間たちが住んでいる場所と捉える面があった。
だからこそ、こうして稲作に不向きな土地にも稲を持ち込んでしまった。歴史上の不幸としか言いようがない。
南部には伝説で、鎌倉期のいつころかに甲斐国に住んでいた人物が今の八戸あたりに上陸して、そのあとじりじりと土地をきり従えたのが南部の殿様の先祖だというものがあるそうだ。
南部と津軽は仲が悪い。この旅の中で訪れている八戸は旧南部領だ。津軽と南部は方言もひどくちがうし、歴史も共有していないという。
この仲が悪くなる要因となるのが、津軽為信の存在である。
中世の久慈地方ではコン氏というグループが勢力を得ていた。やがて南部氏の下に隷属し、久慈氏と称するようになった。
戦国期に、久慈備前という人物が出て、その末子に久慈弥四郎という男が出た。
彼が津軽征服を請負い、津軽を征服してしまう。名を改め大浦為信と称する。これが後の津軽為信である。
南部家の家臣がいきなり大名になったのだから、裏切りと捉えられても仕方ない。
城という中世末期の言葉。上代では「城(き)」といい、中世では「舘(たて)」といったそうだ。こうした地名は東北に多いようである。
安藤昌益。日本人が生んだ共産主義的思想家。自ら農具を取って耕す直接耕作者とその行為以外は認めない。耕さないで聖人の教えを売っている儒者は罪人である。
士農工商の四民の制もけしからぬ。武士は直耕者がつくった穀物をむさぼり、反抗すると武力でこれをとりひしぐ。商人も同然である。
斬新といえば斬新な発想だが、江戸時代において、身分制度を否定するのは危険きわまりない思想だったともいえる。
さて、この項の終わりに。恥ずかしながら、十一月二十三日の勤労感謝の日が、新嘗祭の日づけから来ていることを知らなかった。
肥薩のみち
薩摩と肥後をあわせて肥薩とも呼ばれる。
肥後人は元来がモッコスで、一人一党。統治者から見ればじつに治めがたい集団だったようだ。そのため、戦国時代を通じてついに肥後の国の統一者を出さなかった。
だから、加藤清正がやってきて一揆を平定して治めることができたのは奇跡的である。肥後人気質に清正の人柄が合っていたのかもしれないというのが氏の意見である。
薩摩藩では富農が存在しなかったし、成立させもしなかったというのは、士族崩壊後の鹿児島県を知る上で重大な鍵かもしれないといっている。
他の国々では農村の余剰資本が商業にまわって富商を成立させているが、薩摩藩ではそれすら存在しなかった。
河内みち
河内王朝という考えがあるそうだ。
崇神天皇以後五代つづく三輪王朝が衰弱したあと、河内に移り、応神天皇に始まる王朝だという。
三輪王朝の特徴として、イリのつく名前が多い。一方、河内王朝にはワケがつくのが特徴だという。
河内というと、滑稽さとがらの悪さというイメージを持つ人もいるかもしれない。
が、時代によって河内のイメージは変遷しているという。
戦前は抽象化されたほどの高貴な山河である。それは、楠木正成の生地ということであるからだ。それが、上記のようなイメージになったのは、作家の今東光氏の尽力があるということらしい。
本書について
司馬遼太郎
街道をゆく3
陸奥のみちほか
朝日文庫
約二八〇頁
目次
陸奥のみち
奥州について
陸中の海
華麗ななぞ
南部衆
安藤昌益のこと
穀神の文化
高山彦九郎の旅
久慈
鮫の宿
野辺地湾
肥薩のみち
阿蘇と桜島
田原坂
八代の夕映え
人吉の盆地
桃山の楼門
久七峠
隠れ門徒
馬場の洋館
苗代川
薩摩びとについて
隼人
サムライ会社
竜ヶ城
河内みち
若江村付近
平石峠
香華の山
弘川寺
蝉の宿
PL教団
自衛の村
牢人と役者たち