覚書/感想/コメント
大きく分けて、若衆組という独特の青年組織をたずねて歩く「みち」と、鉄砲伝来の地である種子島をたずねる「みち」の二つになる街道をゆくである。
熊野・古座街街道
若衆組。入会資格については、家格に条件の付く地方もあったようだが、基本原理は平等というものであった。誰でも一定の年齢になれば入会する義務と権利がある。
主な目的は共同体の祭礼をやることと、若者各個にとっては自分を婚姻に導いてくれる重要な機関であるとされる。若衆組に入ると、両親の監督を離れ、若衆頭の命令が優先し、つねにその支配を受ける。
この若衆組は、古来日本の氏族制で代表される北方的要素に対して、南方的要素をもつものだという。
薩摩(鹿児島)でも郷中という若衆組織をもっており、西郷隆盛は年少の頃何度も郷中頭をつづけた。薩摩藩では、士族の居住区ごとに、少年と青年それぞれに郷中をつくらせ、その自治の中で若者の教育を行わせた。
こうした平等思想は他にもあったようだ。
土佐では天保庄屋同盟というものがあった。盟約五十二ヶ条の基調となっている精神は平等思想としかいいようがないものらしい。
司馬遼太郎氏は坂本竜馬を調べているときに、この庄屋同盟のことを思い出し、竜馬の同時代においては異様とさえ見える思想は風土的なものなのかもしれないと思ったという。
同郷の中江兆民がルソーの徒となり、幸徳秋水もそいういう系列の中の人であったと考えると、思想の土俗体質的なものがあったのかもしれないと述べている。
お茶会で使う水。京都あたりでは大事な茶会の時は宇治川の川の水を汲みに行くという。茶の味が全く違うのだそうだ。水は渦をまいて揉み合ってくたびれたのが一番旨いようである。
豊後・日田街道
由布院の由布という言葉には諸説があるというが、木棉(ゆふ)と決め込んでも間違いはないように思えるという。
木棉(ゆふ)は「もめん」のことではない。上代の言葉で、木の皮から繊維を取りだした布をいう。院は奈良朝のころの官設の倉庫のことである。
九州に院とつく地名が多いのは、太宰府の統轄力の強さをあらわしているといっていいようだ。
日本の農村の場合、江戸期において天領(幕府領)だったか、大名領であったかでだいぶ違ったようだ。天領はもともと豊かな土地が選ばれ、その上租税も安かった。
天領に赴任させる郡代や代官なども、旗本の中からよく人を選び差し向けていたようであるから、テレビなどで見られる悪代官というのは、天領のそれではなく、大名領か旗本領の場合が多いのではないかという。
天領は時代によって多少の増減はあったが、元禄期で四百万石だったという。豊後日田もそうした天領の一つであった。
鵜飼は日本書紀にも古事記にもでてくる古い漁法である。この鵜飼で使う鵜であるが、先輩後輩の序列があり、厳然たるものであるという。鵜匠に飼われた年功順に並ぶのだそうだ。
大和丹生川(西吉野)街道
丹生(にう)とは水銀のこと。この丹生を採掘して歩いた古代の鉱業集団は広地域で活躍していたそうだ。
種子島みち
いまはそうではないだろうが、薩摩では離島を信じがたいほど馬鹿にしていたという。だが、種子島だけは例外だったようだ。
種子島は天文年間の鉄砲の伝来で知られる。当時の島主は種子島時堯。その屋敷に紀州の根来寺の津田監物(算長)が長逗留していたことが重要である。
当時根来寺は七十万石ほどの経済力を持っていたといわれ、津田監物は僧兵の大将あるいは一山の政治経済の切り盛り役のようなことをしていた。
紀州きっての実力者が種子島に長逗留していたのだ。根来寺が海外貿易をやっており、津田監物は貿易の主管者だったようである。だが、このおかげで一挙に鉄砲は全国的に広がることになる。
また、種子島は島全体から砂鉄がとれるという。こうしたことも一因にあるようだ。
ただ、伝来当時は銃身の底をどうふさいでいいのかわからなかったそうだ。底がねじになっているのだが、当時の日本にはねじの知識がなく、これを知るのに非常な苦心があったとされているそうだ。
本書について
司馬遼太郎
街道をゆく8
種子島みち ほか
朝日文庫
約二九〇頁
目次
熊野・古座街道
若衆組と宿
田掻き
熊野海賊の根拠地
山奥の港
一枚岩
薩摩の話
瀬の音
川を下りつつ
河原の牛
明神の若衆宿
古座の理髪店
豊後・日田街道
国東から日出へ
油屋ノ熊八
由布院の宿
土地と植物の賊
梵音響流
豊後のツノムレ城
天領・日田郷
鵜匠
日田小景
朝鮮陶工の塚
大和丹生川(西吉野)街道
ブンスイの里
川底の商家群
麦つき節
種子島みち
種子島感想
南原城のことなど
鹿をなぐる人
鉄と鉄砲
島の雨
喜志鹿崎
骨董屋
千座の海鳴り