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司馬遼太郎「坂の上の雲」第2巻の感想とあらすじは?

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文庫第二巻。

「坂の上の雲」という題名ですが、「あとがき」こう書かれています。

『のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみみつめて坂をのぼってゆくであろう。』

なお、文庫版では第八巻に「あとがき」のすべてが収録されています。

それぞれの巻末には関係地図が掲載されています。とくに記述だけでは分かりづらい海戦などの場面ではおおいに参考になります。

「坂の上の雲」は司馬遼太郎作品の中でもとみに議論の的となる作品であり、賛否両論あるようです。批判の一つには日露戦争のとらえ方にあります。

その議論の的となる日露戦争はまだ始まっていませんが、先んじて日清戦争というのが本書の大きな場面として登場します。

日清戦争については、こう書かれて始まります。

『日清戦争とはなにか。
その定義づけを、この物語においてはそれをせねばならぬ必要が、わずかしかない。
そのわずかな必要のために言うとすれば、善でも悪でもなく、人類の歴史の中における日本という国家の成長の度あいの問題としてこのことを考えてゆかねばならない。』

さて、司馬遼太郎氏は次のように帝国主義下の日本を語ります。

『あいかわらずの帝国主義はつづくが、-(略)-いわばおとなの利己心というところまで老熟した時期、「明治日本」がこのなかまに入ってくるのである。』

『日本のそれは開業早々であるだけにひどくなまで、ぎごちなく、欲望がむきだしで、結果として醜悪な面がある。』

この帝国主義下の日本を語って、次には参謀次長の川上操六について語ります。

『川上操六は骨のずいからのプロシャ主義者といっていい。-(略)-参謀本部の活動はときに政治の埒外に出ることもありうると考えており、ありうるどころか、現実ではむしろつねにはみ出し、前へ前へと出て国家をひきずろうとしていた。-(略)-川上の考え方は、その後太平洋戦争終了までの国家と陸軍参謀本部の関係を性格づけてしまったといっていい。』

そして、この川上操六が性格づけた国家と陸軍参謀本部に続くかたちで、当時の憲法を語っています。

『憲法-(略)-によれば天皇は陸海軍を統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属していない。作戦は首相の権限外なのである。このことはのちのちになると日本の国家運営の重大課題になってゆくのだが、-(略)-はるかな後年、軍部がこの条項をたてに日本の政治のくびを締め上げてしまうにいたろうとはおもわなかったであろう』

『明治憲法-(略)-がつづいたかぎり日本はこれ以後も右のようでありつづけた。とくに昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんだことをおもえば、この憲法上の「統帥権」という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう』

小説(文庫全8巻)

NHKのスペシャル大河「坂の上の雲」(2009年~2011年)

内容/あらすじ/ネタバレ

正岡子規の病気の進行はやや止まったが、常磐会寄宿舎を居づらくなって追い出されてしまった。

すでに東京大学国文学科に進んでいたが、このままでは学校を続けていくことが不可能に近くなった。

また二度目の落第をしてしまい、退学を決意して、保護者である陸羯南に相談することとなる。

陸羯南は明治の新聞界で特異な位置を占めた「日本」の社長であった。陸羯南のすすめもあり、子規は「日本」に入社する。同時に母と、もとの独り身となっていた妹のお律を呼び寄せることにした。

子規と新聞「日本」との関係は学生時代からであった。俳句に関する評論を掲載したことがあるのだ。俳句も短歌も子規によって蘇らされたが、はじめのうちの子規はどうにもならぬくらい下手であった。

だが、作るにつれて上手くなった。子規の場合、古今の俳諧をたんねんに調べることで文芸思想として深くなり、実作に影響したことの方が大きい。

高浜虚子は「子規は俳句が判ってから師表になったのではなく、俳句の判らぬうちから師表となったのだ」と書いている。子規の俳句や俳論が大きく成長したのは「日本」に入った時期からであろう。

子規は松尾芭蕉の偉大さを認めつつも、作品に対してはじめて近代的批判精神による評価を下した。

戦争が始まろうとしている。いわゆる日清戦争だ。

小村寿太郎という中国に派遣されていた外交官がいた。秋山好古より四歳上である。

生涯「攘夷主義者」をもって自認していた。文部省の留学生として渡米し、帰国後は司法省に勤めた。ほどなく外務省に転じることになる。物の本質を見抜くに長けた男だった。

列強は対中国外交を重要視している。だが、北京における列強の外交団の中には日本の公使は入っていない。この当時の北京の代表的政治家は李鴻章だった。

すでに、朝鮮をめぐっての日清間の関係は険悪であった。朝鮮半島の地理的意義が原因となった。

日本にとって朝鮮を他の列強にとられた場合、防衛が成立しないという思いがあった。そのため、日本は全権伊藤博文を天津に送り、李鴻章と談判せしめて、天津条約をむすんだ。

韓国では東学党ノ乱がはびこり、漢城には袁世凱もいることから、韓国政府は清国に急派をしてもらうことにした。この動きは日本にすぐ伝わった。

後世、日清戦争はやむにやまれぬ防衛戦争ではなく、あきらかに侵略戦争であり、日本においてははやくから準備されていた、といわれたが、首相の伊藤博文にはそういう考え方はまったくなかった。

だが、参謀次長川上操六にあっては、あきらかにそうであった。川上操六は骨のずいからのプロシャ主義者だった。

川上は諜報を重視した。かれは東京にいながらすべてを知っていた。韓国が清国に内乱鎮圧の出兵を要請した翌日、東京では日本も「出兵」する旨の閣議が決定した。

だが「出兵」であり、戦争をおこすということではない。「出兵」には準拠すべき条約があった。

川上操六と同じ思想を持つ者に外務大臣陸奥宗光がいた。

二人は内々で十分な打ち合わせをとげており、川上操六は短期決戦であれば成算ありと結論を得ていたので、短気に大勝を収め、講和へ持って行くことは陸奥が担当することになった。

二人がやった戦争といっていいだろう。

第一戦は日本側の勝利であった。宣戦布告はまだ行われていない。一連の戦いは「韓国政府の要請による」というかたちがとられた。これより前に、海上ではすでに最初の砲煙があがった。

日清戦争の当時、秋山真之は海軍少尉、巡洋艦筑紫ののりくみであった。海軍はこの戦役からはじめて連合艦隊方式をとった。司令長官は伊東祐亨であった。

海軍は三つの水域で清国艦隊と海戦をして、それぞれの水域で世界の海戦史上記録的な戦勝をあげることになるが、真之はまったくの素人だと批判した。伊東も戦後「天佑」であるとしている。

この海戦は世界中から注目されていた。久しく大規模な海戦がなかったのもあり、近代海戦の実験という意味合いもあった。列強海軍の専門家のほとんどは清国艦隊が勝つと予想していた。

対する清国海軍の司令長官は丁汝昌であった。

秋山好古はフランスから帰国しており、騎兵少佐に昇進し、騎兵第一大隊長になった。日本海軍が制海権を確立したため、海上輸送の安全がひらけた。

そして、好古にも、日本騎兵にとっても初陣がやってくる。そして、好古には騎兵無用論の意見にたたかわねばならないという義務感があった。

好古は旅順要塞に向かってすすんでいる。旅順というのは、戦いというものの思想的善悪はともかく、二度にわたって日本人の血を大量に吸った。好古は、旅順の分析と弱点、攻撃法を説いた捜索報告を出している。

半年はかかるといわれた旅順要塞は、まる一日で陥ちてしまった。

子規は近所に越した。日清戦争がはじまるころ、与謝蕪村の再評価に熱中しており、「写生」にこだわっていた。

子規も従軍したくなっていた。従軍記者が一人必要になったところで無理を通して従軍することになった。結局、子規の従軍はごくわずかな期間で終わる。だが、大量に喀血をし、入院を余儀なくされる。

いったん故郷の松山に戻ることにし、大学時代からの友人である夏目漱石と一つ屋根の下で暮らすことになる。この頃に、軍艦「筑紫」が戻り、真之が子規の見舞いに来た。

秋山好古は結婚をして、騎兵中佐に昇進した。一方の真之は大尉となった。

帝政ロシアが極端な侵略政策をとって、日本を圧迫しつつあった。その中で、秋山真之に辞令が下り、真之と親しかった広瀬武夫にも辞令が下る。

二人はそれぞれ、真之はアメリカ、広瀬はロシアへ派遣されることとなる。

真之はアメリカで戦術家として世界的水準をぬいたアルフレッド・セイヤー・マハン大佐から研究方針を教えてもらうことにした。

マハンの研究方法は、過去の戦史から実例を引き出して徹底的に調べることである。近世や近代だけでなく古代もやり、陸と海の区別すらない。

戦いの原理にいまもむかしもなく、陸戦の法則や教訓を海戦に応用することもできる。

この頃、アメリカではキューバの問題が加熱しており、これが米西戦争を引き起こすことになる。

真之はこの米西戦争で、アメリカ艦隊がスペイン艦隊を軍港にとじこめ、港口に汽船を自沈させる、世界最初の閉塞作業をその目で見ることになる。この実見が日露戦争で生きた。

この米西戦争のレポートによって秋山真之の戦術能力が海軍省と軍令部につよく印象づけられることになる。

このレポートは、日本海軍がはじまって以来、終焉するまで、これほど正確な事実分析と創見に満ちた報告書はついに出なかったといわれるものだった。

これがのちに、真之が東郷艦隊の参謀にえらばれ、艦隊の作戦は秋山にまかせると信用を受けるようになる始まりである。

だれいうとなく子規庵と呼ばれるようになった家で子規は寝ていた。病床についてからの文筆活動は凄まじく、俳論と俳句研究などにより、俳句革新はほぼ成し遂げられた。残るは短歌である。

短歌は知識階層の手に握られている。相手が知識人が多いだけに、かんたんにはゆかなかった。だが、子規は最初から挑戦的であった。

わずかな例外を除いて和歌というものはほとんどくだらぬと言ってのけ、子規はそのわけを様々に実証する。

秋山真之が帰国してきて、子規庵を訪ねてきた。真之は子規の書いたものを寝転がって読んだ。真之は、読み進めるうちに、子規の革新精神のすさまじさと、たけだけしい戦闘精神に酔ったごとくとなる。

そして、子規が俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしていると感じた。

清国はねむれる獅子と思って列強は過大に評価していた。だが、日本に敗れることによって、その実体を世界にさらけ出した。

日本は日清戦争の結果、二億両の賠償金と、台湾、遼東半島などを得た。このうち遼東半島はロシアの横槍によって返還を余儀なくされた。日本はとうていロシアと戦えるような国ではない。実力がなければそのいいなりになるしかない。

日露戦争当時のロシア皇帝はニコライ二世である。このニコライ二世は若い頃に日本にやってきて事件に巻き込まれている。大津事件だ。

ニコライ二世は平素、日本および日本人という言葉が出る時、「猿」とよんだ。

その皇帝のもと、ロシアは極東進出の大きな眼目として不凍港の獲得があった。それには満州を得なければならない。遼東半島はロシアのものとなり、明治三十一年三月十五日調印された。

北清事変が起き、その終結後、列強は清国に駐屯軍をおくことになる。日本も同様であった。

天津における日本の司令部は清国駐屯軍守備隊司令部と呼称され、司令官に任命されたのは、大佐に進級している秋山好古であった。

好古には意外に外交の才があり、袁世凱から重大な機密をおしえられることとなる。それは、ロシアと清国とのあいだに秘密条約をむすぶことがすすめられているという不確認情報を裏付けるものだった。

本書について

司馬遼太郎
坂の上の雲2
文春文庫 約四一〇頁
明治時代

目次

日清戦争
根岸
威海衛
須磨の灯
渡米
米西戦争
子規庵
列強
関連地図

登場人物

秋山信三郎好古…兄
秋山淳五郎真之…弟
正岡升子規
秋山平五郎久敬…秋山兄弟の父
佐久間多美…好古の妻
お律…子規の妹
お八重…子規の母
大原恒徳…子規の叔父
高浜清(虚子)…池内信夫の四男
河東秉五郎(碧梧桐)
内藤鳴雪
寒川鼠骨
陸羯南…正岡子規の生涯の恩人、「日本」社長
古島一念…編集主任
佃一予…のちに満鉄理事
小村寿太郎…のち外務大臣
大鳥圭介…中国駐在公使兼韓国駐在公使
伊藤博文
大山巌…陸軍大臣
川上操六…参謀次長
陸奥宗光…外務大臣
李鴻章
袁世凱
西郷従道…海軍大臣
山本権兵衛…大佐
伊東祐亨…連合艦隊司令長官
樺山資紀…軍令部長
丁汝昌…清国北洋艦隊司令長官
ジョージ・E・ベルナップ…アメリカ海軍少将
夏目漱石
広瀬武夫…海軍大尉
星亨…アメリカ公使
アルフレッド・セイヤー・マハン大佐
ニコライ二世…ロシア皇帝
ウィッテ…ロシアの重臣
ベゾブラゾフ…ロシアの重臣
アレクセーエフ…関東州総督
伊集院彦吉…天津領事