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司馬遼太郎「坂の上の雲」第6巻の感想とあらすじは?

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文庫第六巻。

「坂の上の雲」の中で唯一これまでと角度が異なるのが「大諜報」です。

ロシア革命に至るまでに、その活動団体を支援しつづけた日本の明石元二郎大佐の活動を描いています。

陸軍と海軍の戦闘が表の「戦争」であるとするなら、この明石元二郎の活動は裏の「戦争」です。

この戦争についてであるが、司馬遼太郎氏は、次のようにいっています。

『もともと戦争というのは、
「勝つ」
ということを目的とする以上、勝つべき態勢をととのえるのが当然のことであり、ナポレオンもつねにそれをおこない、日本の織田信長もつねにそれをおこなった。』

つまりは、戦術の要諦は手練手管ではありません。

敵に倍する兵力と火力を集め、敵を圧倒するというのが戦術の大原則です。

なぜなら、味方の被害が少なく済むからです。

ですが、小部隊を持って奇策を講じ、大軍を翻弄して破るというのが日本人の好みであり、伝統的に奇術的な名将譚が好きです。

これによって源義経や楠木正成、大坂の陣での真田幸村や後藤又兵衛たちが国民的英雄となっています。悪しき認識と考えているようです。

こうした英雄譚は小説などで読む分には痛快事かもしれませんが、現実的には味方の全滅を招く可能性が高くなります。

それに、前述の武将たちは、結局は敗れています。

そして、勝つためには、その戦術においてもっとも禁物なの一つが兵力を小出しに使用することであると述べています。これは至る所で繰り返し述べられています。

黒溝台においては『日本の総司令部は、兵力不足のためつい兵力の出し吝しみをし、その結果、兵力の逐次投入という戦術上の初歩的な禁忌をおかしてしまった』と述べています。

旅順の乃木軍参謀に対するものほどではないにしろ、この黒溝台での総司令部の参謀たちへの非難というのが見て取れます。

この当時のマスコミを書いた部分というのも興味深いです。

ロシアの革命前の動きを報じる日本の新聞について、司馬遼太郎氏は『当時の日本の新聞記者というものがいかに国際感覚に欠けていたかわかるであろう。』といっています。

この点は、現在でもさほど状況が改善しているとは思えません。

新聞は、日露戦争が終わったあとにおいても、ロシアがなぜ負けたかという分析を一行ものせませんでした。

『「ロシア帝国の敗因」
といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負けるべくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずからが負けた」ということになるであろう。
-(略)-日露戦争後に日本におこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対的優越性といった迷信が発生せずに済んだか-(略)-免疫性をもちえたかもしれない』

小説(文庫全8巻)

NHKのスペシャル大河「坂の上の雲」(2009年~2011年)

内容/あらすじ/ネタバレ

ロシアのグリッペンベルグ作戦が発動した時、日本軍総司令部は秋山好古からの重大な警報が報ぜられたにもかかわらず、黙殺し、ロシア軍は冬季に大作戦をおこさないと根拠皆無の固定観念にとらわれつづけていた。

こうして予兆はふんだんにあったにもかかわらず、日本側の記録による「黒溝台ノ一戦ハ不慮ニ起リ、カツ我ガ弱点ヲ衝カル」ということになる。

単なる威力偵察と思っていたものが、敵の圧力が増すにつれ、威力偵察ではないと気づいた時から、総司令部の狼狽は開戦以来類のないものとなった。連日ぶっ通しで狼狽しつづけた。

この総司令部の狼狽にもかかわらず、黒溝台の惨戦をささえたのは、前線部隊の驚嘆すべき悪戦苦闘であった。

この会戦をロシア側の戦史では沈旦堡の会戦といい、日本側では黒溝台付近の会戦という。

秋山好古は騎兵第一旅団に歩兵と砲兵を加えて指揮下に置いていたため、戦闘単位として旅団というより支隊となっていた。好古がとっていたのは拠点式陣地という特殊なものであった。それをわずか八千そこそこの兵力で守っている。この好古の正面に対していたのはグリッペンベルグの兵力十万であった。

総司令部もこの攻勢に初めて反応を示し、一個師団を救援に向かわせることにした。わずか一万数千の援軍である。が、すでに遅かった。

好古は、敵の企図を知った。それは沈旦堡と黒溝台を撃砕して日本軍左翼に南下し、包囲作戦に出ようとするものであった。これが成功すれば、日本側は全軍が崩壊する。

この時期、総司令部が握る総予備軍は弘前の第八師団だけだった。この師団は戦略予備軍であり、満州における戦局の激しさに、常に兵力不足に悩まされていた日本軍は、この戦略予備軍までつかわざるをえなかった。

秋山好古は正面からの怒涛に耐えていた。拠点防御方式に最大の威力を発揮したのは、各拠点に数挺ずつ配置した機関銃であった。

好古は懸命に防戦した。もはや戦術も何もなく、逃げないという単純な意志だけが戦闘指揮の原理となっている。

総司令部から参謀の田村守衛騎兵中佐がやってきた。好古は「見てのとおり、無事だ」といった。これ以外に言いようがなかった。

その頃、秋山支隊の援軍として派遣された第八師団がロシアの猛攻に立ち往生しており、このことを知った総司令部の狼狽は極みに達した。

ようやく総司令部もロシア軍が沈旦堡と黒溝台を撃砕して日本軍左翼に南下し、包囲作戦に出ようとする企図であることを知り、開戦以来の空前の大決断をせざるをえなかった。

黒溝台の会戦はロシア軍の退却をもって終わりを告げた。第八師団の受けた損害の多さは、この時期までの世界戦史に類がないものとなってしまった。

この会戦に参加した日本軍の兵力は五万三千八百であり、死傷九千三百二十四人、ロシア軍は兵力十万五千百人、損害は一万千七百四十三人であった。

ロシアにしてみれば最大の勝機を逸したというべきであり、九割の兵力を残しながら退却したのは奇妙というほかない。この奇妙さはクロパトキンの命令によるものであった。

バルチック艦隊は依然としてマダガスカル島のノシベにいた。この間、東京の大本営が入手していたバルチック艦隊の情報は、僅少ながらも充分なものであった。そして、老朽艦を集めて編成された第三太平洋艦隊のことも知った。

この時代、世界中の情報がロンドンに集まる仕組みになっていた。日英同盟によって、日本は豊富な情報が与えられ、国際情勢の判断をほとんど誤ることがないという望外の利益を得ている。

ロシアは、国内はもとより、フィンランドなどの属邦での独立運動が活発化しており、ロシアに革命を起こさせる導火線となっていた。

ここに明石元二郎大佐がいる。陸軍は明石に駐露公使館付を命じており、どうやら諜報を期待されていた。この明石に開戦直前、東京の児玉源太郎は、電報による秘密命令を発した。内容は知る術もないが、どうやらロシアにおいて革命指導をせよといったものであるらしかった。その資金として百万円が与えられた。

明石が接触できたのは、コンニー・シリヤクスであった。フィンランド過激反抗党の党首である。明石の二年にわたる活躍を通じてもっともよき同志となったのが、このシリヤクスであった。

明石は次々と地下運動の志士を知り、彼らに資金を渡して、その活動の手助けをした。明石の居所は転々としたものの、革命扇動と軍事諜報と破壊活動という三つの目的が組織の形をとり生き生きと動き始めていた。

ロシア側におけるロシア革命史には明石元二郎の名は出ていないが、ロシア革命は明石が出現する時期からくっきりと激化していくことになる。

志士を集めてのパリ会議が始まった。目的は皇帝制の打倒である。そのためあらゆる党派がそのもっとも得意とする方法を用いることとなる。

ロシアは大きく揺れ始めた。そして、有名な「血の日曜日」が起きる。ロシアの社会不安は、もはや革命前夜という様相を呈しはじめた。

旅順を陥した乃木軍は北進しなければならない。満州軍総司令部の児玉源太郎は乃木軍の手があくのを待ちに待っている。

だが、この時期の日本の兵員の質は全般的に低下している。特に乃木軍の質は落ちていた。日本軍は初期の日本軍ではなかった。

旅順陥落のあと、乃木軍司令部の大異動がおこなわれた。旧参謀のほとんど全員が転出するという騒ぎとなった。

乃木軍が満州に向かって北進しはじめた頃、連合艦隊は艦艇の修理をほぼ完了し、新段階に向かって作動しつつあった。

黄海の決戦での東郷艦隊の射撃の成績はよくなかったため、東郷は射撃能力を飛躍すべく猛特訓をさせた。この砲術において、画期的な方法を採用した。「一艦の砲火の指揮は、艦橋において掌握する」というものであった。この方式は同じ頃に英国において創案された方式でもあった。

東郷艦隊がその待機地である鎮海湾に入った時、バルチック艦隊はなおもマダガスカル島にいた。

奉天にクロパトキンはいる。クロパトキンがにぎっていた兵力は三十二万という兵力であり、大山・児玉がにぎっている野戦軍は総ざらいしても二十五万であった。

それまで一八一三年のライプチヒの戦いが最大規模のものとされ、仏軍十七万一千、連合軍三十万千五百であった。これを超える戦いが始まろうとしていた。

東京の政府と大本営は、戦費の関係から、戦争をできるだけ早く終わらせたかったのは開戦以来かわらない。日本はその財政的危機から、決定的戦勝を得て事態を和平にもちこみたいという気分が高まっていた。

奉天会戦は春前にというのが日本軍にとっての痛切な時期的条件だった。この冬季の河が結氷しているじきこそ、人馬車輌が自由に動ける時期だからである。この大攻勢の作戦案を立案したのは松川敏胤少将であった。

本書について

司馬遼太郎
坂の上の雲6
文春文庫 約三七五頁
明治時代

目次

黒溝台(承前)
黄色い煙突
大諜報
乃木軍の北進
鎮海湾
印度洋
奉天へ
関連地図

登場人物

秋山信三郎好古…兄
秋山淳五郎真之…弟
(秋山支隊)
豊辺新作…大佐
大山巌…参謀総長
児玉源太郎…参謀次長
松川敏胤…大佐→少将
田村守衛…騎兵中佐
立見尚文…中将、第八師団長
由比光衛…参謀長
乃木希典…第三軍
津野田是重…参謀
東郷平八郎…中将、連合艦隊司令長官
明石元二郎…大佐
宇都宮太郎…中佐
カストレン
コンニー・シリヤクス
チャイコフスキー
メリコフ
ブレシコブレシコフスカヤ
ガポン神父
イアン・ハミルトン…英国陸軍中将
ニコライ二世…ロシア皇帝
ウィッテ…ロシアの重臣
クロパトキン
グリッペンベルグ…大将
ミシチェンコ…コサック騎兵集団の長
ロジェストウェンスキー…中将、バルチック艦隊司令長官
ウラジミール・コスチェンコ…技師