伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第11巻です。
今回の舞台は文明10年(1478年)〜文明11年(1479年)です。舞台は京都に移ります。
京都では応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで約11年間にわたって続いた応仁・文明の乱が終結して一時の平穏が訪れています。
しかし、新九郎が関わっている今川家の家督争いは依然として進展が見られませんが、次集の第12集で今川家の相続に関して大きな進展がみられることになります。
関東では「享徳の乱」(享徳3年(1455年)から文明14年(1483年))が続いたままです。
本書でも引き続き黒田基樹氏が協力者になっています。
舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。
第11集の基本情報
人物関係
第11集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは関東の状況を整理しました。
堀越公方側(幕府側) | 古河公方側 | |
公方 | 足利政知 | 足利成氏 |
山内上杉家 | 上杉顕定(関東管領) 長尾忠景 | 長尾景春 |
扇谷上杉家 | 上杉定正 太田道灌(資長) |
関係年表
本書の舞台となるのは、1478〜1479年です。新九郎は数え年で23〜24歳です。
ーーー第11集はここからーーー
1478(文明10)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【関東】上杉顕定は足利成氏と和睦を成立させる。千葉孝胤を境根原合戦で破る。
1479(文明11)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
ーーー第11集はここまでーーー
1479(文明11)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【関東】足利成氏は幕府とも和議を申し出る。
【関東】足利義政は今川家における龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する。しかし、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても今川範満は家督を戻さず。
蓮如が山科本願寺を建てる
物語のあらすじ
家督の行方
伊勢新九郎盛時は備中荏原に行こうと考えていました。
御供衆を務めて5か月たちますが、全くお呼びがかからないため、凶作の報告を受けている荏原を見に行こうと考えたのです。
領地を任せていた笠原美作守が病で倒れたということもありました。
荏原にはひと月半ほど雨が降っていません。対岸の村と水の奪い合いになったりしていました。
新九郎は伯父の伊勢掃部助を訪ね、このような凶作の時にどのようにしているのか教えを請いました。
伯父の家で久々に”つる”に会うと、つるに子供ができていました。名を千々代丸といいます。
つるは千々代丸を那須修理亮の家督にできないかと考えていました。
夜。
新九郎は伊勢掃部助と吞みながら、凶作の際の対処法を教わっていました。それは、年貢をごまかすこと…。
高越山城主館に戻ると、平井安芸守が謝罪してきた。年貢米を抜いて備蓄分の足しにしていたのです。政所もグルになってのことでした。
京。
伊都を駿河今川家の京都雑掌を務めている妙音寺の法音が訪ねてきました。
法音は今川新五郎範満が正式な家督に近づいたと見ていました。
法音は伊都と新五郎のどちらに付けばよいかと尋ねてきました。これまで通り伊都側で働くのであれば、焼け落ちた堂宇再建費用を出してほしいと無心してきたのです。
伊都はこれを断ってしまいます。それを聞いた父・正鎮(伊勢盛定)は伊都を諫めました。
備中。
新九郎は那須資氏居館で、源頼朝が那須与一に与えたという直筆の書を見ていました。新九郎は贋作だと考えました。
そして、そこまでして守り抜きたいものがあると感じました。
京にいる大道寺太郎から文が届きました。東国の様子を見せに行かせている荒木彦次郎と多米権兵衛からの文が同封されていました。
新九郎は太田道灌の動向を調べさせに行ったのです。
道灌は3月には長尾景春方の武蔵小机城攻略にとりかかり、4月には攻略。二宮、磯部、小沢の各城を降伏させ、景春与党を奥三保に追いました。
そのまま相模西郡まで進撃し、小田原城の大森成頼を攻め、相模平定は完了しています。
長尾景春は太田道灌の足止めになりませんでした。
駿河。
小田原城を大森家庶家の実頼が継ぐことになり、その知らせを聞いた今川新五郎は伊豆の東側の不安がなくなったと安堵しました。
京。
伊勢貞宗が伊都に法音が今川新五郎の意を受けて蔭涼軒に働きかけていると言いました。
室町御所の東側にある相国寺の方に鹿苑院という塔頭があり、その寮舎の一つが蔭涼軒です。将軍の私的諮問機関的存在でした。
つまり、直接将軍家に願いを届けられるルートの一つでした。
ただし、大御所の足利義政が駿府の体制に納得していませんので、まだ望みがあります。
こうした中、新九郎が京都に戻ってきました。
悪企み
室町幕府奉公衆の小笠原政清は娘の縫(ぬい)を溺愛していました…。
伊勢貞宗邸で伊勢掃部助盛頼が報告していました。盛頼は妙音寺の法音を訪ねて借金を取り立てていたのです。
そこに小笠原政清が訪ねてきました。伊勢盛頼は政清の一人娘を嫁にしてはどうかと新九郎に勧めました。
新九郎は備中で見た源頼朝の贋作の話をしたところ、龍王丸の正当性を補完するために、今川上総介の譲り状を作ってしまうことになりました。
ぬい
十月中旬。法音が亡くなりました。
伊勢盛頼は妙音寺に残っている借金をねたに、龍王丸側に付くよう脅しました。
文明11年(1479)。
足利義尚は従二位に叙され、大御所・義政、御台所・富子を御所に招いての猿楽興業が伊勢貞宗邸で行われました。
春になり。
大道寺太郎の発案により、新九郎は在竹三郎、荒川又次郎らを連れて祇園社に物見遊山に出かけました。
そこで小笠原政清の娘・ぬいと出会いました。
義政の胸中
新九郎は多米権兵衛と荒木彦次郎からの報告を受けていました。
この頃、大御所の足利義政は腫物の悪化で床に伏していました。
悪夢を見た翌朝、腫物が破れて膿が出て、熱が下がりました。
そして、ついに足利義政は今川家の相続に関する審理を始めることにしました。