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ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第14集)の感想とあらすじは?

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伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第14巻です。

今回の舞台は文明15年(1483年)〜文明18年(1486年)です。舞台は京都です。

「都鄙和睦(とひわぼく)」が成立し、関東でようやく乱が収まりましたが、新たな火種が各所にできます。

新九郎もようやく妻を迎えます。後に北条氏綱の母となる南陽院(ぬい)です。

この14集で最も大きな出来事は「山城国一揆」です。

応仁・文明の乱の最中、守護大名が在国での実権を守護代や国人に奪われそうになったため、京都から引き上げたことにより、乱が終結しますが、守護大名家の家督争いは解決されず、守護大名間の争いは各地で起きました。

こうした状況の中で、国一揆や土一揆がおき、主君を実力で倒す家臣があらわれ、下剋上の世となっていきます。

山城の国一揆では、南山城の守護大名・畠山氏が畠山政長と義就の2派にわかれて争っていたところ、文明17(1485)年、宇治の平等院で国人の集会が開かれ、両軍を国外に退去させて約8年にわたる自治を行いました。

次集から本格的に伊勢新九郎盛時の東国進出の物語が始まります。最初のクライマックスです。

本書でも引き続き黒田基樹氏が協力者になっています。

コミックの帯にはこう書かれていました。『脚本家三谷幸喜氏、心躍る!「大河ドラマ」を観ている気持ちで読んでます。』

舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

第14集の基本情報

関係年表

本書の舞台となるのは、1483~1486年です。新九郎は数え年で28〜31歳です。

ーーー第14集はここからーーー

1483(文明15) 都鄙合体により幕府と足利成氏と和睦
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【関東】都鄙合体により幕府と足利成氏との和睦が成立。

1484(文明16)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【京都】畠山政長と畠山義就の軍が宇治で戦う

1485(文明17) 山城の国一揆
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【京都】山城国一揆。山城の国人・農民が団結して両畠山軍を追い出し、8年間自治を行った。
慈照寺東求堂建立

1486(文明18)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長⇒細川政元⇒畠山政長 
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【関東】太田道灌、主君上杉定正に暗殺される
雪舟の山水長巻

ーーー第14集はここまでーーー

1487(文明19/長享1)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長⇒細川政元
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【北条家】駿河へ下向した伊勢宗瑞が龍王丸を補佐する。石脇城(焼津市)に入って同志を集める。11月に兵を起こし、館を襲撃して今川範満とその弟・小鹿孫五郎を殺害する。龍王丸は駿河館に入る。

物語のあらすじ

奥方は18歳

12月初旬。

新九郎は小笠原政清との話を思い返していました。その時、将軍・足利義尚の近習・広沢彦次郎尚正がやってきました。

広沢彦次郎はもともと猿楽師で、金剛座から観世座に引き抜かれた四郎次郎の息子で、先月まで観世彦次郎といっていました。

広沢姓は足利氏の初代・義康の孫・義実の苗字です。足利家の一門として扱えということでした。

ぬいは新九郎の家臣に慕われていました。大道寺太郎もそうでした。

明けて文明16年(1484)5月。

ぬいを御所に連れてくるように言われた小笠原政清は困り果てていました。

5月27日。御所内で異様な事件が起きていました。

足利義尚が広沢彦次郎に妻を持たせるつもりで、権大納言三条公躬の娘を名指ししました。三条家は同意せず、説得の使いが2日間にわたって17回にわたって御所から遣わされました。

しかし、娘は髪を下ろして出奔し、将軍・足利義尚の面目が丸つぶれになりました。

細川政元は広沢彦次郎を殺そうと考えていました。

こうした中、小笠原政清は娘ぬいを出仕させようとは思っていませんでした。

新九郎はぬいが来ているところで話をし、妻になってほしいと頼みました。ぬいは二つ返事で承諾します。

新九郎29歳、ぬい18歳でした。

文明十七年の動乱

文明17年(1485)正月4日。

奉行衆が奉公方より先に年始の挨拶をしたことにより、御前沙汰の裁判となりました。

5か月後。

険しい顔の新九郎を見て、ぬいは心配しました。険しい顔をしていたのは、奉公方と奉行衆の対立が解決していなかったからです。

御前沙汰では奉行衆の負けに決まったのですが、それを不服として50人ばかりいる奉行衆が職場を放棄し、奉書も出せない状況になっていました。

奉行衆が布施下野守の邸を囲んでいるという話が来ました。ここにきて足利義尚は近臣たちと善後策を協議し始めます。

こうした時、伊勢家一門は立場が微妙です。政所執事の伊勢貞宗はどうしても奉行衆寄りにならざるをえないので、奉行衆との間にしこりを残したくないからです。

大御所・足利義政は布施下野守英基に隠居させるべく、伊勢貞宗を通じて細川政元に伝えました。そして政元の名代として安富元家が布施邸に派遣されましたが、布施英基はこの提案を断固拒否します。

これに足利義尚は布施追討の命を出しました。もはや面子と面子のぶつかり合いでした。

御所近い布施邸付近で戦が起きるのは困るため、細川政元が布施英基を説得し、いったん京から逃がしました。

翌々日には奉行衆が全員剃髪遁世し、結果的に奉公方の完勝になります。

6月中旬。

大御所・足利義政が出家し、この騒ぎは足利義尚と奉公方の勝利ということになりました。これで名実ともに足利義尚の世になります。

荏原では伊勢盛頼が親族の祥雲寺の寺領を押領していました。そうした情報が届いた中、宇治田原から大道寺右馬介がやってきて、占領されてしまったと報告しました。

応仁の乱が終わったあとも、畠山義就は畠山政長と戦いを続けており、戦いの舞台は大和から南山城まで広がっていました。

互いの勢力が支配権を争うなかで宇治田原は畠山義就の被官・齋藤彦次郎という者に奪われていたのでした。

しかし齋藤彦次郎が寝返り、山城全体が御料所となり、国奉行に任ぜられた伊勢貞宗の判断で、齋藤彦次郎を一帯の代官に任命します。

大道寺の所領は伊勢貞宗に戻され、新九郎の収入が減ることになります。

この月、奉行衆が足利義尚の赦しを得て、全員復帰し、政務が動き始めました。

伊勢盛頼の一件も動き始めますが、この件で盛頼が新九郎のところにやってきます。

新九郎はこれを機に、荏原の所領を盛頼に買わないかと持ち掛けました。

12月。南山城で大事件が起きます。「山城の国一揆」です。

国人たちが守護クラスの勢力を国から追い出したのです。

和睦の傷痕

奉公方が奉行衆の元凶である布施英基と飯尾大和を討ち果たしました。

文明17年。足利義尚は奉公方と奉行衆の対立で奉公方の武力を背景に奉行衆も手中に収めました。

大御所・足利義政に近かった奉行衆を屈服させたことで義政が維持していた実権をほぼ掌握したのでした。

しかし、そんな足利義尚にも悩ましい問題がありました。それは世継ぎがいないことでした。

伊豆では堀越公方・足利政知が茶々丸を廃して寿王を嫡男にしようとしていました。それを聞いて上杉政憲は断固反対します。

そうした中、京の伊勢貞宗から上杉政憲に大御所・足利義政の御内書が届けられました。

寿王を上洛させ、天龍寺香厳院に入れよという内容でした。つまり、寿王を将軍に何かあった際の保険とするということでした。

文明17年10月。武蔵国川越城。

古河公方・足利成氏と幕府の和睦が成立して3年が経ちました。

29年にわたる関東での動乱「享徳の乱」で関東管領方として働いてきた扇谷上杉家の定正は心穏やかざる日々を送っていました。

関東管領・上杉顕定から所領返還の催促が来ているのです。返せる所領はすでに返しています。

太田道灌が跡継ぎを、10年以上前に決めた六郎から息子の鶴千代に変えると言い出し、上杉定正には頭の痛いことばかりです。

上杉定正は江戸に行く用事があり、太田道灌と膝詰めで話し合いました。

その場で道灌は定正に山内家の風上に立たないかとそそのかしました。

文明18年春。

伊都が新九郎に駿河の焼津郷の代官にならないか打診をしました。来年には龍王の帰駿させるために駿河に行く予定です。荒川又次郎を行かせるつもりでした。

狐が関東の情報をもってきました。

当方滅亡

文明18年(1486)正月。

太田道灌は元服させた嫡男・源六資康を下総国古河城の足利成氏に挨拶させました。これにより形式的には足利成氏に臣従したことになります。

これを知り、川越城では道灌に対する批判が増しました。

上杉定正のところに関東管領・上杉顕定の使いがやってきました。顕定は上杉定正が太田道灌を使って関東管領家に叛旗を翻すのではないかと疑っているというのです。

上杉定正は太田道灌をかばいきれなくなっていました。