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ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第18集)の感想とあらすじは?

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伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第18巻です。

今回の舞台は長享2年(1488年)~長享3年(1489年)です。舞台は京都です。

第18巻から、足利将軍家の泥沼の後継争いが繰り広げられます。

  • 人物名鑑⑬:足利義熙(義尚)(あしかが・よしひろ(よしひさ)):第9代将軍。
  • 人物名鑑⑭:足利義材(あしかが・よしき)、香厳院清晃(きょうごんいん・せいこう):足利義視の長男、堀越公方・足利政知の次男。
  • 人物名鑑⑮:伊勢貞宗(いせ・さだむね):政所執事、伊勢守。新九郎の義理の従兄。

本書でも引き続き黒田基樹氏が協力者です。

新将軍の座は誰の手に!?
権力者が変われば組織も変わる。
そのしわ寄せで……
新九郎、再び無職の危機!?

新将軍候補は、将軍になれなかった父の執念を背負う息子たち!
香厳院清晃(十歳)堀越公方で足利義政の庶兄・政知の次男 応援・細川政元 VS 足利左馬頭義材(二十四歳)元将軍継嗣で足利義政の弟・義視の長男 応援・日野富子

コミックの帯

舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

第18集の基本情報

関係年表

本書の舞台となるのは、1488~1489年です。新九郎は数え年で33歳です。

ーーー第18集はここからーーー

1488(長享2) 加賀の一向一揆
●将軍:足利義尚 ○管領:空位
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 
【関東】長享三戦。長享の乱における戦。上杉顕定と上杉定正の間で行われた戦い。実蒔原の戦い、須賀谷原の戦、高見原の戦の3つの戦をいう。
【一向宗】加賀一向一揆。高尾城の戦(長享の一揆)。守護・富樫政親を追い払い約100年の間、自治を行うようになる
飯篠長威斉家直(剣豪)が亡くなる

1489(長享2/延徳1) 足利義政が銀閣寺を建立
●将軍:足利義政 ○管領:空位
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 
足利義政が銀閣寺を建立

1490(延徳2)
●将軍:足利義材 ○管領:細川政元
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 
足利義政が亡くなる
銀閣寺の完成

ーーー第18集はここまでーーー

1491(延徳3)
●将軍:足利義材 ○管領:空位
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知⇒足利茶々丸 
【北条家】伊勢新九郎、伊豆を占領

物語のあらすじ

鈎の陣にて

駿河から戻った伊勢新九郎は、細川政元のもとを訪ねて挨拶をしました。

政元は足利政知との繋がりができたことを確認しました。このつながりは政知の息子・清晃を将軍にするための足掛かりでした。

新九郎は次の体制にからめとられていることを知り、愕然とします。

政元は、将軍・足利義煕(義尚から改名)の体調は悪く、長くないと言います。

そして年が明けた長享3年(1489)3月26日、足利義煕が鈎の陣にて亡くなりました。

息子の死を嘆き悲しんだ日野富子でしたが、彼女はすぐに動き始めました。

二人の将軍候補

日野富子は美濃から足利左馬頭義材を上洛させました。大御所・足利義政とかつて将軍位を争った足利義視の長男です。

そして、京の天龍寺・香厳院には堀越公方足利政知の次男・香厳院清晃がいました。

伊勢守貞宗は新九郎を連れて足利義政を訪ねました。

義政は次の将軍を決めかねていました。清晃は10歳と若すぎ、義材はかつての政敵の息子だからです。

しばらくは将軍位を空位にして、その間、義政が政務を執ることになりました。

新九郎は細川政元を訪ね、清晃と対面します。茶々丸とそっくな面立ちに驚きます。

ほどなくして足利義政が脳梗塞で倒れました。その間隙を縫って、美濃から足利義視と義材の親子が上洛します。

倒れた足利義政が回復しました。そして、政務復帰を果たし、後嗣問題は引き続き先延ばしとなります。

足利義視と義材の親子が日野富子と面会します。義材は喜びますが、義視は日野富子を信用していません。

一方で、清晃の後ろ盾になったのが細川政元でした。

こうした状況の中、改元され延徳となりました。その矢先、足利義政が再び倒れます。

義政

足利義政が再び回復しました。情勢が流動的になります。

新九郎は父・正鎮(伊勢盛定)と相談し、清晃だけでなく、足利義材とも顔をつなぐことにしました。

そして、足利義政が三度倒れます。症状は前回よりはるかに厳しく、昏睡状態から危篤に陥りました。

日野富子は伊勢守貞宗と足利義視を呼び、昏睡状況の足利義政との対面を画策します。

しかし、対面の最中に意識を取り戻した足利義政は無許可の対面に激怒します。

足利義材が新九郎を呼び出しました。そして、亡き足利義煕(義尚)がどのような人物だったかを教えて欲しいと言います。

延徳2年(1490)正月7日、足利義政が亡くなります。

精魂を傾けた観音殿(銀閣寺)の完成を見ることなく、そして、将軍継嗣を指名することがないままでした。

新たな確執

延徳2年、日野富子の後押しを受け、足利義材の立嗣の儀が行われました。

伊勢家は政争に敗れましたが、日野富子と対面し、清晃を義材の後継候補として引き続き留めることを求めました。

日野富子は清晃に小川弟を与えることにしましたが、これが足利義視を疑心暗鬼にさせます。

なぜなら小川第は実質的な第二の室町御所だからです。

足利義視は小川第を打ち壊しました。この事態に清晃は悔しがります。

こうした情勢の中、新九郎は足利義材に仕え始めます。清晃から乗り換えたのです。