伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第2巻です。
本書で新たに登場する人物の中で最も重要なのは、今川治部少輔義忠です。
駿河今川家第8代当主で、正室は北川殿として知られる伊勢盛定の娘です。「新九郎、奔る!」での伊都です。
その息子が幼名・龍王丸、後の今川氏親です。今川義元の父になります。
伊勢新九郎盛時が東国で台頭するきっかけとなるのが、今川家における家督相続でした。第2巻で、そのきっかけが描かれます。
今川義忠は享徳の乱で、鎌倉公方・足利成氏討伐のために出陣し、鎌倉を攻略します。
その今川義忠が上洛するのですが、率いてきた兵は約1,000。御所の警護には役立ちますが、戦には役立ちません。
しかも短期で駿河に戻ってしまいます。この様子を描いた場面の通り、
何しに来たんだろうなぁ、あの人。
嫁取りだろ!
新九郎、奔る!第2巻 p200
になりました。
本作でも、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏が考証の協力しています。
舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。
第2集の基本情報
時代背景
本書の舞台となるのは、応仁元(1467)5月~応仁2(1468)年秋です。新九郎が数え年で12歳です
応仁の乱の時期はとてもややこしいです。
京都での戦、政争だけでなく、関東でも騒乱があるためです。
「新九郎、奔る!」では主人公・新九郎がいる場所を起点に描かれますので、関東のことがあまり描かれませんが、本書で重要なのは、斯波義廉が足利義政を超えて古河の足利成氏と幕府の和睦を取り持とうとしたことです。
京都で細川vs山名の戦いが行われる中、関東では並行して幕府vs古河公方の戦いが行われていたのです。
人物関係
第2集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは応仁の乱の陣営を念頭に整理しました。
東軍 | 西軍 | |
将軍家 | 足利義政(第8代将軍) 足利義視(今出川殿、義政の弟) | |
伊勢氏 | 伊勢貞親(政所執事) 伊勢貞宗(貞親の嫡子) 伊勢貞藤(貞親の弟) 伊勢盛定(父) 蜷川親元(政所執事代) | |
細川氏 | 細川勝元(管領) | |
山名氏 | 山名宗全 | |
斯波氏 | 斯波義敏 | 斯波義廉(管領) |
畠山氏 | 畠山政長(管領) | 畠山義就 |
関係年表
文正元年(1466年)
●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕→上杉顕定
【京都】「文正の政変」伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら将軍近臣が失脚する。側近を失った足利義政の影響力が低下し斯波家の家督は斯波義廉に戻される。
ーーー第2集はここからーーー
応仁元年(1467年)
●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長→斯波義廉
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】御霊合戦(上御霊神社の戦い)。上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突。
応仁2年(1468年)
●将軍:足利義政 ○管領:斯波義廉→細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】足利義政と細川勝元は足利義視を説得して東軍に帰陣させる。文正の政変で失脚した伊勢貞親を政務に復帰させる。足利義視は再度出奔して比叡山に登った。西軍が足利義視を迎え入れて新将軍とする。西幕府。細川勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。西岡の戦い。大内政弘によって山城国は西軍によって制圧されつつある。
【関東】上野で綱取原合戦。
ーーー第2集はここまでーーー
文明元年(1469年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【西国】大友親繁・少弐頼忠が大内政弘の叔父・大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻する。陶弘護に撃退される。
【関東】岩松持国の次男・岩松成兼が上杉方の岩松家純に追放され、岩松氏を岩松家純が統一する。
物語のあらすじ
戦下の元服
上御霊社の戦いで幕府内の勢力図が大きく変化しました。斯波家と畠山家の家督が山名宗全の与党で占められたのです。
細川勝元は権力のカヤの外に置かれ、上御霊社の戦いで同志の畠山政長に加勢しなかったことで評判もガタ落ちとなります。
細川勝元は受けた屈辱は必ず晴らすと誓っていました。
応仁元(1457)年5月に入ると、何故か各地で騒乱が常態化します。
そして京では若狭国守護武田信賢が丹後・伊勢半国などの守護一色義直の屋敷を襲撃します。一色邸は御所の真向かい、伊勢貞宗邸の隣でした。
ついに京の市街地を舞台にした戦いが始まりました。
戦いは武田と一色の私戦でなくなり、細川讃岐守成之も加わっていました。
戦いは、細川勝元と山名宗全の戦いになっていたのです。
細川邸には死んだと思われていた畠山政長がいました。細川勝元は御所に向かいました。
一方で山名宗全の反撃も始まります。
一色邸襲撃から翌日にかけて数知れぬ家屋敷、寺社が焼亡しました。
千代丸は大道寺太郎とともに祖父・横井掃部助時任を訪ねました。
そして、実母・浅茅は伯父の伊勢貞藤から正妻として迎えられることを知ります。
細川勝元は優勢なうちに遺恨の根を断ち切るべく、足利義政から牙旗が下されることになりました。こうした中、伊勢貞親が京に戻ってきました。
牙旗が下されたことで将軍御所は細川勝元側と化します。
堀川を挟んで細川側が東側に陣を布いたので東軍、山名側は西側なので西軍と呼ばれるようになりました。
御所は東側にあったので、東軍化し、同じく東側に邸のある伊勢家も東軍に取り込まれました。
千代丸は伊勢貞宗に元服を願い出ました。
元服を済ませた千代丸は、新九郎盛時と名乗ります。
父還る
山名宗全の次男・山名弾正忠是豊が細川側に寝返りました。
新九郎は伊勢貞宗に連れられ、御所で足利義政と御目見を終えます。この時に御所内で足利義視とすれ違い、御目見となりました。
邸に戻り、新九郎は兄・八郎貞興と今日のことについて話し合いました。
備中荏原から荒川又右衛門の子・又次郎、在竹兵衛尉の子・三郎が奉公衆のお役目のため上ってきました。
二人は道中、大内周防介の大軍勢を見たそうです。
この無傷の大内周防介政弘の軍勢がやって来るという情報を得た東軍は斯波義廉邸に猛攻撃を加えました。しかし、斯波邸が落ちません。
大内政弘ついの入洛しました。3ヶ月近くに渡る攻防戦で疲弊している西軍にほぼ無傷の軍勢が加わったのです。
この状況に焦りを覚えているのが足利義視でした。足繁く通っている伊勢貞藤には考えがあるようでした。
奉公衆の五番組の一部が細川勝元を襲撃しました。御所内部に西軍側の者がいるということです。
そして伯父・伊勢貞藤に謀反の疑いがあるとして新九郎ら一番衆は貞藤邸を囲むよう命じられました。
伊勢貞藤は京を出て行くことになりました。実母の浅茅も一緒です。新九郎は浅茅に弟の弥次郎を自分に任せて欲しいと頼み込み、弥次郎を引き取りました。
同じ日、足利義視が視察に出たきり戻ってきませんでした。兄・貞宗も一緒です。
将軍御所に上皇と天皇が臨幸することになりました。これで名実ともに東軍は官軍となります。
一方で足利義視らが伊勢国を目指していることが分かりました。
賊軍の立場に置かれながら西軍の士気が衰えません。
将軍御所の建物が半焼し、東軍の命運が尽きたかに見えましたが畠山政長の猛攻により東軍陣地のほとんどを奪い返します。
父・伊勢盛定が戻ってきました。
そして駿河から今川治部少輔義忠が御所警護のために上洛してきました。
伊都の縁談
戻ってきた盛定に対して伊都はたんと説教しました。
伊勢邸では今川義忠を迎える準備をしていました。
蒸し風呂でサッパリした今川義忠は蜷川新右衛門に案内され宴席に向かいました。この宴席に伊都も呼ばれ、今川義忠と対面します。建物外では紫屋軒宗長ら今川家家臣と伊勢家家臣が呑んでいます。
鬼火
新九郎は木を削りながら姉・伊都と話していました。
今川家は足利家一門の名門です。父・盛定は伊都を嫁がせたいようですが…。
新九郎は木を削り終えて竹馬を3つこしらえました。弟・弥次郎、春王、福寿丸の分です。
新九郎は今川義忠と語らうことができました。
今川義忠は大軍での上洛ではありませんでした。そのため京へは嫁探しに来たのではないかと噂されました。
伊勢貞親は御所の力になって何か土産が欲しいのだろうと考えました。遠江…
今は斯波武衛家の分国ですが、元々は今川家の分国でした。遠江を取り戻すのが今川家の悲願です。
ですが、これでは大きすぎます。小さな奉公には小さな御恩です…
応仁2年。
細川勝元は戦場に発石木を投入しました。これに山名宗全は武士の戦ですることかと激怒します。
侍所所司代の多賀豊後守高忠が道賢という男を探し求めていました。
新九郎は今川義忠と碁を打っていました。対局の中で義忠は新九郎に自分の弟なる気はないかと尋ねました。
文正の政変で失脚していた伊勢貞親が赦免され、失脚状態が解除されました。
これを受け今川義忠は伊都との婚姻を進める気になっています。
家中にはもっと良い縁組もあると良い声がありましたが、伊都もほとんど伊勢宗家の娘と言ってよく悪い縁組ではありません。
何よりも価格の高い家が今川家のために何をしてくれるというのか、と疑問を投げかけます。遠江をくれると言うのか、ということです。
そして今川義忠が伊勢邸を訪ねて伊都に直接ぶつけました。
戦の様相が変わってきています。足軽と称する奇妙な者どもがうごめいているらしいのです。頭目は骨皮道賢という男で、多賀豊後守が使っていた目付です。
噂では細川勝元が銭で雇ったらしい。
この足軽に西軍が業を煮やし骨皮道賢を討ち取ります。しかしこの足軽の活動は足軽の時代の到来を告げるものになりました。
足利義政は、自分を超えて古河の足利成氏と幕府の和睦を取り持とうとした斯波義廉を罷免し、再び細川勝元を管領に任じました。
管領に戻りにあたり、細川勝元は足利義視の召喚を求めました。
そして今川義忠が駿河に戻ることになり、別れの宴が開かれ、伊都を正式に妻に迎えたいと申し出ました。
足利義視が上洛し、八郎貞興が戻ってきました。