覚書/感想/コメント
本書ではローマ建国から、第一次ポエニ戦役直前までの五百年間が取り上げられている。ローマを舞台にした、歴史小説である。これといった主人公がいるわけではない。
題名のとおり、「ローマ人」が擬人化された主人公として考えればいい。塩野七生氏の他の小説同様、客観的な立場から記述されており、そうした意味では小説としては捉えにくいかもしれない。
小説として捉えにくいのなら、ローマを紹介する入門書として読めばいいのではないだろうか。もっとも、入門書としては膨大な分量のものであるが…。
「知力では、ギリシア人に劣り、体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンに人々に劣り、技術力では、エトルリア人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣るのが、自分たちローマ人である」
それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの一大文明圏を築き、長期にわたって維持することが出来たのか。
ローマ人は昔から紀元前七五三年にロムルスによって建国されたと信じ、ロムルスはトロイから逃れてきたアイネイアスの子孫に当たると信じてきた。
だが、ギリシアと交流するようになると、トロイの陥落は紀元前十三世紀頃のことであり、ロムルスが登場するまでの四百年間の空白を埋める必要に迫られ、適度に四百年を作り上げたようだ。
ローマはロムルスが建国する以前は、人は住んでいたが、都市建設がされなかった場所のようである。謎のエトルリア人が中部イタリア、南イタリアにはギリシア人が入植していた。
だが、この二民族ともローマには食指を伸ばしていない。二民族にとってローマは魅力のない場所だったようだ。
そして、この地に建国したローマは双方からの圧力受けることがなかった。これも、ローマの独立を尊重したからではなく、勢力圏に加えたいと思わせる魅力がなかったからである。
ローマは七つの丘からなっている。ロムルス十八歳のとき、彼についてきた三千人のラテン人によって建国された。
ロムルスは王になったものの、国政を三つの機関に分けた。王と元老院と市民集会である。元老院は百人で、王に助言をするのが役目であった。市民集会は王や政府の役職者を選出するのが役割である。また、政策の承認の可否をするのも市民集会であった。
このロムルスに従ってきた三千人のラテン人の大部分は独身の男だったようだ。そこで、他民族の女たちを強奪するのがロムルスの第二の事業となった。
標的となったのがサビーニ族。ローマはこのサビーニ族を取り込むことに成功する。これを皮切りに、ロムルスの治世の間、近隣部族との戦いに明け暮れた。
百人の兵で一隊を組む、百人隊(ケントゥリア)制度を考え出したのもロムルスであり、ローマが存在するかぎり、存続し続けた。
二代目の王ヌマはサビーニ族出身だった。ヌマは戦闘に明け暮れたローマに秩序をもたらした。建国当初からして多民族国家であったローマは、起こりがちな民族間の摩擦を防止する必要があったのだ。
また、神々にヒエラルキーを与えた。ローマには専任の神官がいなかった。それゆえに狂信的にならず、排他的でもなく、閉鎖的でもなかった。異教徒とか異端の概念にも無縁だった。そして、戦争はしたが、宗教戦争はしなかった。一神教との大きな差であろう。
三代目の王トゥリウス・オスティリウスはラテン系でロムルス同様攻撃型の男だった。彼の時に、ローマはラテン民族の本家になった。
四代目の王アンコス・マルティウスはサビーニ族の出身。ローマは周辺部族の注目を浴びずにはすまないまでに成長していた。テヴェレ河に橋を架け、河口のオスティアを征服して、地中海を向き合う。同時に塩という通貨ではない通貨を手に入れた。
五代目の王タルクィニウス・プリスコはエトルリア人とコリント人の血を受け継いでいた人物。七つの丘の間の湿地帯に地下水道を通し、湿地帯を低地にした。こうした技術はエトルリア人が行った。そして、ローマはこのエトルリア人から学び取っていた。
六代目の王セルヴィウス・トゥリウスはローマ全体を守る城壁の完成を行った。また、軍制の改革を行った。ローマにおいて、国民の義務として税金をはらうことであり、もう一つは国を守るのが義務であった。軍制は税制にイコールし、選挙制にもイコールしていた。
人口調査を行い、市民の数や経済力をもとに新制度を作り上げた。
最期の王「尊大なタルクィニウス」は先王を殺して王位を奪った。彼はローマ市民によって追放された。そして、ローマの王政も終わる。ロムルスの建国から数えて二百四十四年目のことであった。
以後、ローマは共和制に入る。市民集会で選ばれ、任期は一年の二人の執政官が統治する時代を迎える。
ルキウス・ブニウス・ブルータスは以後五百年続く、共和制ローマの創始者となった。
執政官は再選は許されるにしても任期は一年である。そのため、安定した機関が必要となり、ブルータスは元老院を強化した。百人から三百人に増員したのだ。
共和制に移行したローマは、結果として同盟諸国まで敵に回すことになってしまった。そのためほとんど毎年近隣諸国相手の戦闘を繰り返さざるを得なくなった。
紀元前六世紀末から前五世紀の前半の共和制ローマの勢力は、テヴェレ河周辺から河口にかけての狭い地域でしかなかった。東京都の十分の一程度の広さだ。
前五世紀半ば、ローマ人は成文法を作ることになった。そして、三人のローマ人をギリシアへ派遣した。ギリシアにはソロンの改革で有名なアテネがあり、リュクルゴスの改革で有名なスパルタがあった。
ローマから派遣された三人のローマ人がみたのは、ペリクレス時代のアテネであった。ペルシアさえも一目置くほどの繁栄と力を眼前にしながら、ローマはアテネの模倣をしなかった。
かといってスパルタの模倣をしたわけでもない。絶頂期にある国を視察して、模倣をしなかったのだ。
この時期のローマは貴族対平民の抗争という大問題を抱えていた。これは以後百年続く。この解決のために新たに「護民官」が誕生する。護民官になれるのは、平民だけである。
ギリシアから視察団が帰ってきて、成文法が作られたが、これは旧来あったものと変るところのないものだった。新しく加えられたものはなかったのだ。
十二条あったために「十二表法」とよばれる最初にして最後のローマの成文法だが、改正があいついだ。改正は改めるという方法ではなく、適切と思われる法文を新たに制定するという形式で行われた。
紀元前六世紀に近づく頃からケルト人の移動が始まった。エトルリア人の勢力圏を切り崩していたローマはこのケルト人の勢力と対峙することになる。
ローマ国内ではエトルリア都市の攻略に浮かれ、同時に貴族対平民の抗争が再開されていた。紀元前三九〇。ケルト人は南下し、ローマが陥落する。建国以来の屈辱である。次ぎにローマが踏み込まれるのは八百年後のローマ帝政末期の西暦四一〇年である。
これは貴族と平民の抗争の過程で、平民がローマを去ってしまっていたから起きた事件であった。が、このことが解消されても、ケルト人による傷はいやされることがなかった。ローマを中心としたラテン同盟が空中分解したのだ。再び立上がるのに四十年の月日がかかった。
紀元前三六七年、リキニウス法が成立する。二人の執政官による寡頭体制で、共和国のすべての要職を、平民出身者にも開放することが決まった。
貴族制度から、文字通りの寡頭政体の国になったのだ。リキニウス法は前四四年のユリウス・カエサルの改革まで生き続けることになる。
執政官は市民集会を招集すること、つまり内政の最高責任者であり、戦場での指揮も執る、軍事の最高責任者でもあった。
ローマはラテン同盟にかえて、ローマ連合を結んだ。敗者を隷属化せず、共同経営者にするという、「分割し、支配せよ」の考え方の誕生である。
そして、指令や軍勢派遣の効率化を図る目的で、ローマ街道が建設されはじめる。
ローマに新たな敵が出現した。中南イタリアの山岳地帯を支配していたサムニウム族と通算四十三年におよぶ戦争を始めていたが、それが終わると、ハンニバルが自分の戦術上の師とさえ評した、エピロスの王ピュロスとの対決が待っていた。
ピュロスとの対決はローマがイタリア中南部の制覇を完成し、南イタリアの海岸沿いのギリシア人都市と初めて直接接することによって起きた出来事だった。当事者となるギリシア人都市はターラントだった。
本書について
塩野七生
ローマ人の物語1
ローマは一日にして成らず
新潮文庫 計約四〇〇頁
目次
読者へ
序章
第一章 ローマ誕生
落人伝説/紀元前八世紀当時のイタリア/エトルリア人/イタリアのギリシャ人/建国の王ロムルス/二代目の王ヌマ/三代目の王トゥリウス・オスティリウス/四代目の王アンコス・マルティウス/五代目の王タルクィニウス・プリスコ/六代目の王セルヴィウス・トゥリウス/最後の王「尊大なタルクィニウス」
第二章 共和制ローマ
ローマ、共和国に/ギリシアへの視察団派遣/ギリシア文明/アテネ/スパルタ/ペルシア戦役/覇権国家アテネ/ペリクレス時代/ギリシアを知って後/ローマの貴族/ケルト族襲来/ギリシアの衰退/立ちあがるローマ/政治改革/ローマの政体/「政治建築の傑作」/「ローマ連合」/街道/市民権/山岳民族サムニウム族/南伊ギリシアとの対決/戦術の天才ピュロス
ひとまずの結び