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塩野七生の「ローマ人の物語 第9巻 賢帝の世紀」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

この巻で取り上げるのはトライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウスの三人の皇帝である。五賢帝と呼ばれる時代であり、同時代のローマ人も黄金の世紀と呼んだ時代のことである。

塩野七生氏は困り果てていると書き出している。それはトライアヌスの治世なら書くことができたタキトゥスがトライアヌスのことを書いていないからである。

タキトゥスが書かなかった真の理由は何にせよ、事実として、後世に五賢帝の一人に称され、同時代のローマ人までもが最高の第一人者と誉め讃えたトライアヌスの治世について信頼を置くにたる文献資料は絶無ということである。

だが、彼の書いた「まれなる幸福な時代」という一行が、後世の歴史家たちのトライアヌス観を決定した。

皇帝ネルヴァから後継者に指名されたマルクス・ウルピウス・トライアヌスは紀元五三年九月十八日にスペイン南部の属州ベティカにあるイタリカに生まれた。

イタリア人の住む町という意味を持つように、イタリカはローマ人が本国以外後に建設した最初の植民地であった。

トライアヌスの祖先はイタリア出身のローマ市民であることは確かでも、体内に流れる血は混血であったに違いなく、トライアヌスが最初の属州出身のローマ皇帝と特筆される理由でもあった。

青少年期のことはよくわかっていない。ローマ史上に登場するのは二十八個あったローマ軍団の内、一個軍団を指揮する軍団長の息子というものだった。

そして、トライアヌスは二十二歳にして軍団長次席に就任した。初任地は最重要の前線の一つであるシリアだった。二十四歳になり軍団長次席のままライン河駐屯の軍団に送られる。

そして二十八歳になり名誉あるキャリアである会計検査員に当選してエリートキャリアの第一歩を踏み出す。紀元八十三年頃には元老院入りをしたようであり、八十七年に三十四歳になって法務官に当選する。

九十年には執政官に当選した。九十二年に皇帝ドミティアヌスは三十九歳のトライアヌスを高地ゲルマニア軍の司令官に任命する。

九十七年十月二十七日。皇帝ネルヴァはトライアヌスを養子に迎えることを宣言した。すぐにローマに戻ると予想されたトライアヌスはネルヴァの死をケルンで告げられた後も前線にとどまった。

トライアヌスが首都入りを延期してまでやり遂げようとしたことは、ドミティアヌス帝が成そうとして果たせなかったことの継承であり、初代皇帝アウグストゥスの遺言に反することでもあった。決行するからには絶対に成功しなければならなかった。

仕事は低地ゲルマニアと呼ばれたライン河の中流部と下流部の防衛システムの完備である。トライアヌスはドミティアヌス時代の二倍の兵力をダキアに投入すると決めていた。そのための防衛システムの完備である。

トライアヌスがローマ入りしたのは九十九年の夏の終わりだった。

私生活でのトライアヌスはすこぶる出費の少ない皇帝だった。輿を使うことをせず、徒歩をもっぱらとした。元老院での高圧的な態度もなく、国家反逆罪での元老院議員の死罪はしないと確約し、彼の治世の間守られた。

トライアヌスはイタリアの空洞化対策のために、元老院議員たちの資産の三分の一はイタリアに投資する法を通す。本国イタリアの農業の健全な発展こそが重要と考えたのだ。

もう一つの空洞化政策は次世代育成のための基金である。つまりは育英資金制度だった。個人によるものと国家によるものとが統合し、イタリア本国における少子化対策としても効果を発揮することになる。

トライアヌスのダキア戦役にはドミティアヌスのときの三倍の戦力を投入することになった。軍団兵力八万に補助兵を加えた総勢十五万だ。ローマ史上はじまって以来の規模となった。初代皇帝アウグストゥスが覇権拡大を禁じてから九十年近くがすぎている。

このダキア制覇行に関する史料はわずかに三つしかない。トライアヌス自身が書いたといわれるダキア戦記、カシウス・ディオのローマ史の該当部分、トライアヌス円柱と呼ばれる戦勝記念碑である。

そして、ダキア戦記は後に他の人が引用した一行以外は完全に消滅している。カシウス・ディオのローマ史も断片しか残っていない。ということで、史料はトライアヌス円柱しかない。

第一次ダキア戦役は一年数ヶ月で講和をして終わる。

ダキアとの講和が成立した直後からドナウ河での大工事がはじまった。

ダマスカスのアポロドロスはトライアヌス時代の代表的な公共建造物の全てを手がけた建築家だった。その彼に課せられたのはドナウに石造の橋を渡すことだった。建造の目的はローマ領とダキア領を結ぶことにある。

ローマ技術の結晶の一つとされるトライアヌス橋は一年余で完成する。工事は最初から最後まで兵士たちによって行われた。全長一一三五メートル。高さ二七メートル。幅一二メートル。

紀元一〇五年春。講和を破棄して攻勢に出たのはダキアの方だった。第二次ダキア戦役である。そして一〇六年夏。ダキア戦役は完了する。
トライアヌスはダキアを属州とすると公表する。ダキアを併合したことにより、ローマ帝国の領土が最大となる。

トライアヌスは戦って敗れたダキア人の故国での居住を許さなかった。ほぼ全域にわたりダキアを空っぽにして、周辺から住民を移住させた。

トライアヌスは敗者非同化路線を強行した。これにより、ダキアは一個軍団しか常駐しないでもよくなった。同時にドナウ防衛線の再編成も行った。

トライアヌスの治世は首都から属州を巻き込んだ公共工事ラッシュだった。一〇七年から一一二年までインフラ整備に全力投球する。塩野七生氏もげんなりするほどの規模と数量だった。

トライアヌス浴場、トライアヌスのフォールム、オスティアの港湾工事、スペインのアルカンタラの橋…

こうした中で遺された書簡がある。小プリニウスとトライアヌス帝との往復書簡である。

ローマ皇帝たちは広大な帝国を治めるために属州勤務の公職者からの報告や属州住民からの請願や陳情によって情報を得ていた。前者は上記のような往復書簡である。

トライアヌスの私生活は邪悪や堕落の一欠片も見いだせない。だが、子に恵まれなかった。

ローマとパルティアの問題はポンペイウスのヘレニズム諸国の制覇からはじまった。そして、ローマにとってのパルティア問題は常にアルメニア問題から火がつく。

六〇歳となっていたトライアヌスは抜本的解決を目指した。軍事力によって徹底してたたくというものだ。だが、それは夢で終わった。

死の直前、トライアヌスはハドリアヌスを後継者に指名した。

プブリウス・アエリウス・ハドリアヌスは七六年一月二四日にトライアヌスと同じイタリカに生まれた。トライアヌスとハドリアヌスの父は従兄弟の関係にあった。

スペインの南部で育ったハドリアヌスは十歳の時に父を亡くす。後見人にトライアヌスとアキリウス・アティアヌスが依頼された。当時のトライアヌスは三十三歳であった。

この二人に相談によってであろうが、ハドリアヌスは十歳から十四歳までローマで基礎教育を受ける。そして後年のギリシア文明と狩猟への愛はこの十代の頃に形成された。

一〇一年会計検査員に当選したハドリアヌスは二十五歳だった。この頃に結婚をしている。ハドリアヌスが結婚した相手のサビーナはトライアヌスの姉マルチァーナの娘マティディアのそのまた娘、つまり皇帝の姪の娘である。これによって皇帝との親族関係は一層密となる。

ダキア戦役に完勝したトライアヌスにしたがってローマに凱旋したハドリアヌスは、その年に法務官に当選している。父親がわりの二人の後見人の一人は皇帝であり、もう一人は近衛軍団の長官だった。

パルティア戦役の途中で亡くなった皇帝トライアヌスだったが、直前にハドリアヌスを後継者に指名したといわれている。

だが、このことが現代でも研究論文が後を絶たないハドリアヌスの登位をめぐっての謎の発端となる。

本当にトライアヌスはハドリアヌスを後継者に指名したのか?だが、この当時、帝位を継ぐのにハドリアヌス以上の適材はいなかった。四十一歳という年齢に、文句のないキャリア、元老院でも周知の頭脳の明晰さ、軍団の将兵からの人望の厚さ、当時のローマ人にとっては問題がなかったのだ。

皇帝になったハドリアヌスには問題が山積していた。一つはユダヤ問題であり、二つ目はブリタニアでの反乱、三つ目は北アフリカのマウリタニア属州での反乱、四つ目はドナウ北岸のサルマティア族の問題、そしてパルティア戦役をどう終えるかという問題である。

こうした中で、ハドリアヌスは先帝の重臣四人による反ハドリアヌスの陰謀の動きがあるとし粛清をした。

冷え切った雰囲気の中で二年を経過した。やがて状況が好転したと判断したハドリアヌスは視察と整備整頓だけを目的にした大旅行を敢行する。皇帝は不在でも内閣(コンシリウム)は機能するように組織固めを終えていたのだ。

ハドリアヌスの治世は二十一年である。このうち、本国のイタリアにいたのは七年でしかない。しかも四十五歳から五十八歳までの十三年間のほとんどを視察の旅で過ごしている。

最初の巡行先は西方一帯だった。

ライン河防衛全線の視察はゲルマニア防壁から始められた。以後ハドリアヌスは他の地方でも防衛システムの再構築を行う。

ブリタニアではハドリアヌスの防壁を築く。この防壁によってイングランドとスコットランドが分けることになっていく。

スペインにいる時にパルティア王国に不穏な動きが見られるという知らせがあり、すぐさま現地へ向かった。

ローマに戻ってきたのも束の間、一二六年になるやいなやアフリカに発った。旅の主目的はヌミディア属州におかれていた軍団の視察である。

ここで行われた演説は、塩野七生氏の感想ではユリウス・カエサルに並ぶ傑作ではないかというものだった。

この巡行はすぐに終わり、続く一年半は本国から動かなかった。おそらくこの期間に「ローマ法大全」が着手されたに違いない。

アグリッパが建てた神殿であるパンテオンは、ハドリアヌスの時代に土台から作り直され、後世のわれわれが見るものとなる。

ハドリアヌスの建築として有名になるのが、ヴィラ・アドリアーナの名で知られる別邸である。

一二八年の夏。五十二歳になったハドリアヌスは二度目の長い旅に出る。今度は東方の視察である。

そしてローマ帝国の火薬庫であるユダヤに入る。統治上の再構築を行うためである。

やがてこのユダヤで反乱が起きる。一三一年に起きた反乱を一三三年に沈めると戦後処理にはいる。ユダヤはパレスティナと呼称を変え、イェルサレムもその名を消されてアエリア・カピトリーナに変わる。

そしてイェルサレムからのユダヤ教徒の全面追放を命ずる「離散(ディアスポラ)」が出された。ユダヤ人全員が対象ではなく、ユダヤ教徒が対象であり、それもイェルサレムに住むことだけが禁じられた。

すべてをやり終えてローマに戻ってきたハドリアヌスの治世は十七年が経過していた。

ハドリアヌスの性格は複雑だったとされる。一貫していないということでは一貫していたといわれたハドリアヌスは、普通の人の概念では欠点とされる性向で一貫してしまった。

この変化は年齢と病気になったこと、そして塩野七生氏によると、やるべきことをすべてやり終えたことによる精神の張りの緩みがもたらしたものだった。

六十歳になったハドリアヌスは後継者を先延ばすことができないことを悟る。後継者候補はケイオニウス・コンモドゥス、養子になったことでアエリウス・カエサルである。

アエリウスには粛清された四人の一人ニグリヌスの血が流れている六歳の息子がいる。罪滅ぼしの意味があったのだろう。だが、アエリウス・カエサルは病死する。

早急の代わりが必要となる。

ハドリアヌスはこの十年以上も前から一人の少年に注目していたようだ。二代後の皇帝マルクス・アウレリウスである。

一三八年、ハドリアヌスは誕生日に一人に人間を招いた。アントニヌスである。養子に迎えたい旨を伝えた。だが、条件があった。それは十七歳になるアンニウス(マルクス・アウレリウス)とアエリウス・カエサルの息子で八歳のリキウスの二人を養子に迎えることである。

アントニヌス・ピウスの治世は帝国全域を平穏な秩序が支配していた二十三年間だった。

トライアヌスには「至高の皇帝」、ハドリアヌスには「ローマの平和と帝国の永遠」、アントニヌス・ピウスには「秩序の支配する平穏」という評句が捧げられている。

特筆すべきことのない皇帝であったが、立派に賢帝であった。マキアヴェッリがリーダーに不可欠とする力量、好運、時代への適合性を満たしていたのだ。

アントニヌス・ピウスは南仏の属州ナルボネンシスのローヌ河に近いマウスス(現ニーム)出身の家系である。先祖はローマに征服されたガリア人であった。

軍隊の指揮経験が皆無であったが、防衛体制が再構築された後の帝国においては問題でなかった。そして、このことをアントニヌス・ピウスは理解していた。

世間はアントニヌス・ピウスは欲望の少ない人と評したが、五十二歳の新皇帝は帝位についてまもなく考えを公表する。

それは視察巡行の旅に出ないで、ローマと本国イタリアにいながらにして帝国の統治を行うと宣言したのだ。

穏やかで、バランス感覚が抜群、虚栄心は皆無の人物であり、当然の帰結として正真正銘の保守主義者だった。

皇帝は公僕中の公僕と信じていたアントニヌスは、皇帝は何を成すかに加え、どう成すかも手本でなければならないと考えていた。

そして、後半年で七十五歳となるときに静かに息を引き取った。

本書について

塩野七生
ローマ人の物語9
賢帝の世紀
新潮文庫 計約六七〇頁

目次

読者に
第一部 皇帝トライアヌス
(在位、紀元九八年-一一七年)
皇帝への道/気概を胸に/ひとまずの帰都/古代ローマの「君主論」/空洞化対策/育英資金/ダキア問題/第一次ダキア戦役/建築家アポロドロス/「トライアヌス橋」/黒海から紅海へ/第二次ダキア戦役/凱旋/戦後処理/公共事業/
属州統治/プリニウス/私人としてのトライアヌス/パルティア問題/遠征/死
第二部 皇帝ハドリアヌス
(在位、紀元一一七年-一三八年)
少年時代/青年時代/皇帝への道/年上の女/登位時の謎/皇帝として/粛清/失地挽回の策/ハドリアヌスの「旅」/ライン河/再構築/ブリタニア/ヒスパニア/地中海/オリエント/アテネ/北アフリカ/「ローマ法大全」/ヴェヌス神殿/パンテオン/ヴィラ・アドリアーナ/再び「旅」に/ローマ軍団/エジプト/美少年/ユダヤ反乱/「ディアスポラ」/ローマ人とユダヤ人/余生/後継者問題/死
第三部 皇帝アントニヌス・ピウス
(在位、紀元一三八年-一六一年)
幸福な時代/人格者/マルクス・アウレリウス/「国家の父」
年表
参考文献