本のタイトル通り、気候の変動が歴史にどのような影響を与えたのかを教えてくれる一冊です。
重要なのは太陽活動の強弱や火山噴火活動などでした。
太陽活動の強弱と火山噴火は別の自然現象ですが、地球規模で気温の温暖化・寒冷化をもたらす大きな要因でした。
日本列島では、温暖な時代に干ばつにより凶作となり、寒冷化すると冷夏・長雨による飢饉に見舞われました。
天候不順は疫病を大流行させ、社会不安や戦乱の要因ともなったのです。
第Ⅰ章 平城京の光と影
太陽活動は7世紀後半に底打ちして活発期へ転換します。10世紀から11世紀のかけてオールト極小期がありましたが、14世紀まで総じて温暖な気候が続きます。
欧州や中国では8世紀以降に社会的基盤が安定し文化の発展だけでなく、人口増加の勢いも顕著でした。
しかし日本はそうではありませんでした。
8世紀に始まる温暖な時代以降に干ばつ、飢饉、疫病が頻発していました。
干ばつが多かったのは畿内を中心に東海・山陽・四国の西日本でした。関東は奈良時代から日照りに強かった地域でした。
奈良時代は太平洋高気圧の勢力が強く、梅雨前線が北上し高温小雨の夏となり、台風もやって来ず水不足になりました。
この状況は14世紀に低温多雨に変わるまで続きました。
704年〜706年、719年〜720年、722年〜723年、735年〜737年には干ばつに由来する飢饉が記録されています。
奈良時代から平安時代の灌漑設備は貧弱なものでした。平野に広がる水田は灌漑設備が充実する室町時代以降の姿です。
ため池は谷池と皿池があり、谷池は山沿いの河川を堰き止めて小さなダムを作ったものです。
奈良時代から平安時代にかけての良田の多くは水利が容易な川沿いに位置していたと考えられています。
735年の夏から太宰府で天然痘が流行り始めます。それまで日本に無かった疫病です。
8世紀を通して全国的な飢饉の発生は同時期に天然痘に限らず疫病の流行をもたらしました。高温乾燥で雨不足による飢饉が疫病と強く関係していました。
奈良時代の天然痘の流行は763年、790年と続きます。平安時代には19回、鎌倉時代は8回、室町時代は12回、江戸時代に15回の流行がありました。
735年に始まった天然痘の流行は、聖武天皇の政府要人を襲います。737年に藤原四兄弟が亡くなり、橘諸兄へ政権が代わります。
聖武天皇は度々遷都を試みましたが、最終的には平城京に戻り盧舎那仏造営を行います。
鉄器や青銅器の精錬技術には大量の炭が必要となり、ナラ、クヌギ、クリなど広葉樹の硬材が伐採されました。
また、家屋の建築に木材が使われるようになり、頻繁な遷都や巨大な仏教建築の建造によって畿内の古木のほとんどが伐採されます。
藤原京から平城京へ遷都する時代には奈良盆地の森林は消え去り巨木が枯渇していました。そのため、建築資材を周辺から調達せねばなりませんでした。
伐採後の山には木材用の植林は行われず、畿内では森林資源が急速に失われていきました。
檜皮葺、漆喰、畳という住居は古代の森林伐採による資源枯渇の産物でした。
794年に桓武天皇が平安京に遷都しますが、以後1,000年に渡って都が変わりませんでした。必要な森林資源がもはや畿内には残っていなかったのです。
飛鳥時代までに人口の増えた畿内では、薪や炭にするために伐採し、森林資源は建材のみならず燃料として運び出され、森林の自然再生能力が激減します。
低木化した森林では森林火災が増えます。
また、水資源貯蓄、洪水の緩和、水量調節、水質浄化といった機能が低下します。
奈良時代の干ばつが連続して起き、水不足に悩まされた要因の一つになります。
表土が失われて栄養度が低い土壌になった山にはアカマツが増えました。アカマツは他の樹種が生長できないやせた土地で勢力を伸ばしますのですが、アカマツ林は荒廃傾向の林地の象徴といえます。
マツタケはアカマツの幼根にできますので、マツタケは森林荒廃の産物とも言えます。
第Ⅱ章 異常気象に立ち向かった鎌倉幕府
平安時代は長期的な傾向としては奈良時代の同様に高温乾燥の気候が続きました。
800年代前半は干ばつが多発しました。840年代後半から長雨による飢饉があり、860年代から870年代に低温傾向が現れています。
797年から799年に全国規模の飢饉が発生しますが、長雨と洪水が関係しているようです。
平安時代初期は平安京の建設と東北地方への軍事遠征により財政的に困窮しました。こうした中で干ばつによる飢饉が何度も起きており、社会不安が生まれていたようです。
干ばつによって飢えた人々が口分田を棄てて逃亡しました。こうした民が初期荘園に流れ込み、班田収授法の実施は干ばつが続く中でゆっくりと崩壊していきます。
源平騒乱の時代になると、1180年(治承4)以降の干ばつによる養和の飢饉がおきます。
この50年後の1230年(寛喜2)にはおそらく日本史上もっとも厳しかったと考えられる冷夏が原因の寛喜の饑饉が起きます。
1180年は源頼朝が挙兵し富士川の戦いで平家を破りますが、荒川秀俊博士は平家が破れたのは干ばつにより凶作で西日本が食料不足に陥ったことが一因ではないかと考えました。一方で東日本は影響がなかったと考えられます。
大きな干ばつが発生すると飢饉は翌年の収穫まで続きます。1180年の干ばつによる飢饉は1182年まで続きました。
寛喜の饑饉が始まる前から天候異変は続いていました。1226年の長雨、1228年には日照りと大雨という極端な天候が相次ぎます。
こうした状況で1230年(寛喜2)の冷夏を迎え、凶作になります。影響は春先以降の深刻な飢饉を引き起こしました。
江戸時代の飢饉と比べても餓死者が多かったと考えられ、寛喜の饑饉は犠牲者の比率から見て日本史上最悪の饑饉であった可能性が高いです。飢饉は1232年(貞永元)秋まで続きました。
この異常気象は日本だけでなく、1220年代後半から1230年代初めまでは世界各地で異常気象の記録が残っています。
原因として火山噴火が考えられます。火山灰などから噴火があったのは分かっていますが、特定できる大規模火山噴火はありません。
他に想起されるのがエルニーニョ現象です。ナイル川下流の水位の古い記録をたどることで、エルニーニョ現象の発生年を推測する研究があり、それによるとエルニーニョ現象の可能性を示唆しています。
寛喜の饑饉の対する執権・北条泰時の危機意識は早く、1231年には贅沢禁止令が正式に発せられます。また、出挙米の貸出への逡巡に対して処罰を念押ししています。
飢饉に入って3年目の1232年(貞永元)に御成敗式目を制定しますが、寛喜の饑饉をきっかけに地頭による年貢の取り立てが苛酷になり、不法行為が横行したことが、制定へ影響を与えたと考えられます。
寛喜の饑饉の最中、人身売買を巡るトラブルが頻発していました。寛喜の饑饉の間、幕府は御成敗式目の追加法で人身売買を容認していたことがうかがえます。
寛喜の饑饉の惨状に接し、北条泰時は餓死で死ぬのを待つだけなら、奴隷身分に落ちても生き残る選択肢を超法規的措置で乗り切ろうとしたのでした。
その後、人身売買は禁止されましたが、実態では人身売買が実施され続け、その中で1257年に始まる正嘉の飢饉が到来します。
第Ⅲ章 「1300年イベント」という転換期
1258年に、赤道付近のどこかで巨大な火山噴火があったと考えられています。有力な候補はインドネシアのロンボク島サマラス火山です。
噴火の規模は、欧州の古代史を終焉させた546年頃の謎の火山噴火や、天明の飢饉と関係する1783年のアイスランドのラキ火山、夏がなかった年をもたらした1815年のタンボラ火山に匹敵もしくは上回るかもしれないものでした。
日蓮は1260年に第五代執権・北条時頼に宛てた「立正安国論」で飢饉の惨状を記しています。正嘉の飢饉と呼ばれるものです。
日本の天変地異は1256年8月の大雨と洪水に始まります。1257年には大干ばつ、大地震、大疫病、餓死者多数の年になります。
1258年になると巨大火山噴火の影響を思わせる異常気象となり、飢饉は一層厳しくなります。
1259年になっても全国規模の飢饉が続きました。
鎌倉時代に諸国で作成された土地台帳「大田文」から、1150〜1280年に全国各地で人口が減少しました。寛喜の飢饉と同じく東日本で被害が大きかったようです。
1258年後に13世紀後半にかけて3回の大きな火山噴火があり、10数年に及ぶ寒冷化をもたらしました。太陽活動も停滞し、1250年から1350年にかけて温暖期から寒冷期への移行期間となりました。
欧州北部では14世紀初めから不作が続き、大飢饉として歴史上語られる大凶作に襲われます。
海面水位も下がり、日本でも文献でそのことが伺えます。
1223年、京都から鎌倉の旅を記した「海道記」で現在の神奈川県の江ノ島付近で陸地が現れていたことが書かれています。
新田義貞が1333年に稲村ヶ崎を回って鎌倉に侵入しますが、この海岸線突破は大潮時の干潮を利用しただけでなく、この時代の海面水位が低下していたことも影響していそうです。
明治時代に聞き取った記録で、江戸時代末期の大潮の際には500メートル以上にわたって干上がり、七里ヶ浜から由比ヶ浜まで海岸線を歩いて渡れたそうです。
第Ⅳ章 戦場で「出稼ぎ」した足軽たち
ハワイ大学のファリス氏による推計として1150年頃の日本の人口は530万人から630万人とも数字があります。
養和の飢饉、寛喜の飢饉、正嘉の飢饉によって、鎌倉時代末期まで日本の総人口はほとんど変わらなかったとします。
その後の人口も1280年頃は570万人から620万人と推定しています。1450年頃は960万人と推定しています。
1450年の人口は一橋大学の斎藤修名誉教授は1050万人、鬼頭宏博士は1000万人を支持しています。
大幅に人口が伸びた理由としては、農業技術の発展がありますが、14世紀半ばから15世紀初頭にかけての比較的温暖であった気候が背景にあります。
1427年に日本各地が大雨・洪水に襲われます。凶作は翌年の飢饉を深刻化させます。そして1428年9月に正長の土一揆が起きます。
天候不順は続き、1437年に冷夏・長雨が全国的に広がり、翌年には飢饉が深刻化し、1440年代に入っても状況は変わりませんでした。
嘉吉の飢饉以降も天候不順は続きます。
これらの天候不順は太陽活動がシュペーラー極小期に入っただけでなく、1440年代から火山噴火が激増したことも理由にあげられます。
なかでも大きかったのが1452年後半から1453年初めに噴火したと推測される南太平洋シェパード諸島のクワエ火山です。
これらの火山噴火により北半球は低温傾向が続きます。
1459年から1461年にかけて長い干ばつと台風の到来による凶作が続き、長禄・寛正の飢饉となります。
16世紀にはいると、飢饉発生はあるものの頻度は減少します。シュペーラー極小期後半になり太陽活動低下が底打ちし、世界各地の火山活動が沈静化した時代と一致します。
第Ⅴ章 江戸幕府の窮民政策とその限界
1600年の総人口はファリス氏が1500〜1700万人、鬼頭教授が1400〜1500万人としている。1721年には3128万人になったとすると江戸時代前期の121年間で人口が倍に増加したことになります。
縄文時代から江戸時代まで日本の総人口は3回大きな上昇傾向がありました。
最初が縄文時代前期から中期で、総人口が11万人から26万人に2.5倍へ増加しました。この時の人口増加は完新世の気候最適期と呼ばれる温暖な気候によるものでした。人口増加は東日本で顕著でした。その後、寒冷な時期が数百年ごとに訪れるようになると、人口は減少します。
第二の波は紀元前3世紀頃の弥生時代から8世紀の奈良時代にかけてでした。紀元前8世紀の縄文晩期の8万人から、1,000年で500〜600万人に膨れ上がります。
第三の波が室町時代後期に始まり江戸時代前期にピークを迎えます。
人口増加を支えたのが農業生産の向上でしたが、総人口3000万人というのが閉鎖経済である日本の限界だったようです。
1645〜1715年にかけて太陽の表面には黒点がほとんど観測されませんでした。マウンダー極小期と呼ばれています。
1630年代からは世界各地で火山噴火が活発化しました。
太陽活動が低下し火山噴火が多発化し始めた1630年代からは1640年代にかけて世界各地で異常気象の発生が記録されています。
日本でも1636年から干ばつによる凶作の記録が出ています。
1638年から1641年にかけて畿内から西日本にかけて牛疫病が発生して家畜牛が大量死します。
1640年に蝦夷駒ヶ岳が噴火し、津軽では降灰により大凶作になります。
1641年は西日本を含めて長雨・寒冷傾向になります。東日本ではさらに状況が悪化しました。寛永の飢饉は、1641年には江戸幕府は飢饉の発生に気がついていました。この寛永の飢饉は江戸幕府の統治思想を転換するきっかけになりました。
マウンダー極小期の中でも1690年代は北半球の各地で極めて寒い年が続きました。異常低温は日本でも記録が残っています。
畿内や西日本は水害に悩まされましたが、東北地方北部では冷害による元禄の飢饉が発生しました。
飢饉は、享保の飢饉(1732〜1733)、宝暦の飢饉(1753〜1757)と続きました。
享保の飢饉は蝗害によるものでしたが、幕府が迅速に対応して飢饉状況から回復します。
宝暦の飢饉では幕府の対応がまったく異なり、ほとんど何もしませんでした。
1783(天明3)年から天候異変起きます。梅雨が明けきらないうちに秋雨前線が停滞したようです。典型的な冷夏になりました。
天明の飢饉は浅間山の噴火と関連づけられることが多いですが、冷害や水害の多発と時間的に合いません。
どうやら前年にエルニーニョ現象が発生していた可能性が高いことがわかりました。この結果、日本では暖冬と冷夏の組み合わせになります。
これに火山噴火の硫酸エアロゾルによる日傘効果が加わり低温傾向が長期化したと見られますがます。
こうして江戸時代最大の飢饉となる天明の飢饉が起きました。
1832(天保3)年に天保の飢饉が始まり、7年間の長期に渡りました。
破局的な大凶作ではなく、だらだら続く冷夏による印象です。冷夏の要因としては、頻発したエルニーニョ現象との関連が大きいと考えられます。1833年、1835年、1837〜1839年です。
1836(天保7)年の大凶作は1835年1月に噴火した中米ニカラグアのコセグイナ火山の影響した可能性があります。
幕末においても1866(慶応2)年に飢饉が起きます。