火附盗賊改といえば、池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵宣以が有名です。
その火附盗賊改の役割を紹介しつつ、約50人の火附盗賊改が紹介しています。
火附盗賊改は200年の間に約200人おり、再任されたのを含めれば延べ250人に近いそうです。
江戸時代、町奉行が南北あわせても260年間で84人(延べ95人)でした。
四代家綱の時に「盗賊改」が新たに設けられました。町奉行とは別種の治安・警察部隊の誕生です。
盗賊改は捕縛・服属させることなく、皆殺しにするのが使命でした。
そのため選ばれたのは先手頭とその部下の先手組でした。
初めて盗賊改を命じられたのは水野小左衛門守正でした。
盗賊改は五代綱吉の時代になると、捕らえた者を裁判で処罰するようになります。
この頃に盗賊改に加えて「火附改」「博奕改」が置かれ、八代吉宗の時代に合体して「火附盗賊改」になりました。
与力と同心
町奉行には南北それぞれ与力が25騎、同心100人(のちに140人)おり、それぞれ家職のようなプロフェッショナルがいました。
一方で火附盗賊改の先手組は34組ありましたが、与力は5〜10騎、同心は30〜50人でした。
そして先手組によっては火附盗賊改としての経験に大差がありました。
先手弓組二番組は歴代39人の御頭のうち12人が火附盗賊改を命じられました。長谷川平蔵もそうです。
逆に一度も火附盗賊改を務めたことがない組が1つ、1回しか務めていないのが5つありました。
この経験の差が、町奉行には名奉行が何人も生まれ、火盗改に名火附盗賊改がなかなか生まれなかった要因の一つです。
水野小左衛門守正
寛文5年から寛文13年まで最初の盗賊改が5人命じられました。
水野小左衛門守正は500石の旗本です。
曽祖父は尾張・緒川城主の水野忠政、祖父がその四男の忠守です。忠守の兄は水野信元、妹は家康の生母於大の方(伝通院)です。
忠守は織田信長の麾下を離れて家康に仕え、父守重を経て守正に至ります。
中山勘解由直守
天和3年(1683)火附改が新たに置かれ、最初の火附改になったのが3000石の旗本の中山勘解由直守でした。
中山勘解由は突出して取り締まりを行い、江戸庶民ならず武士にも恐れられ、「鬼勘解由」と言われました。
中山勘解由は仏心の篤い人物でしたが、火付改に命じられると、二人の息子を前に、今日からは慈悲では治まらぬ、と仏壇を叩き壊しました。
中山組の与力・同心は怪しいと見るや、町人・無宿者に限らず武士も捕らえて詮議しました。
勘解由が火附改を命じられてすぐに八百屋お七を捕らえます。
天和3年に鶉権兵衛一味を捕縛します。勘解由は取り調べで拷問をためらいませんでした。これまでの犯行や仲間の居場所を聞き出すためにじっくりと責め、「海老責」を考案しました。
勘解由は「かぶき者」にも立ち向かいました。
大小神祇組に限らず、旗本奴・町奴を問わず片っ端からしょっ引いて首をポンポン斬って落とし、一掃します。
火附改を退任したあと、旗本の最高職である大目付になり、従五位下・丹波守に叙任されます。
船越五郎右衛門景次
正徳5年(1715)2ヶ月前に盗賊改に就任した船越のところに、越後蒲原郡に五左衛門という大盗がいるという報告が手先からもたらされました。
五左衛門は安代村と戸口村の境界地でした。
五左衛門を捕らえた船越の同心達でしたが、方々で一時的な預かりを拒否されます。
結局、路銀を使い果たした同心達は五左衛門を解き放ち、江戸に戻ります。
慌てた船越は再び別の部下を向かわせ捕縛します。
事前に大目付から御達があり、今度は一時の預かりの不首尾はありませんでした。
問題となったのは五左衛門が住んでいた土地でした。
しかし、よくよく調べると安代村と戸口村の村人が他の盗賊からの被害を免れるために、帰属のはっきりしない土地に五左衛門に住んでもらって村を守ってもらっていたのです。
山川安左衛門
火盗改の在任記録で長谷川平蔵宣以に次いで長い7年9ヶ月を役にあった山川安左衛門は、苛烈さにおいて中山勘解由と一、二を争いました。
わずか4ヶ月の間に102人を火罪にしました。
徳山五兵衛秀栄
八代吉宗から九代家重に代替わりするころ、東海道筋に江戸時代を通じて最も強大な盗賊集団が活動していました。
浜島庄兵衛、通称「日本左衛門」です。東海道見附宿を本拠にしていました。
日本左衛門の捕縛を命じられた徳山五兵衛の家は部門の名家でした。
徳山五兵衛に関しての記録は少なく、「祇園三女」に絡んで断片的に記録があります。
日本左衛門こと浜島庄兵衛の父は尾張藩に仕える中間でした。
10代の頃に中間の身分から抜け出せないことを知ると、悪事に染まり、父から勘当され親子の縁を切られます。
浜島庄兵衛の手下は100〜200人とも言われ、周辺の藩や代官所は見て見ぬふりをしていました。
取り締まる警察力もなく、代官所内に内通者がおり、一味は大手を振って往来していました。
しかし、訴えがあり、江戸城で浜島庄兵衛追討の命令が下ります。
火盗改一行は見附宿の賭場に日本左衛門が現れると聞いて周囲を取り囲みました。
日本左衛門の腹心を含めた一味が捕縛されましたが、肝心の日本左衛門を取り逃してしまいます。
幕府は総力をあげて探索し、全国へ指名手配しました。
それでも捕まらず、三ヶ月半後に京都の東町奉行所に自首し、幕府はかろうじて面子を保つことができました。
徳山五兵衛秀栄は日本左衛門を獄門にしたことで名が残りました。
長谷川平蔵宣雄
「鬼平」の父・長谷川平蔵宣雄が火附盗賊改を命じられたのは明和8年(1771)のことでした。
翌年、田沼意次が正式に老中になりました。同年、目黒行人坂の大円寺から出火し、甚大な被害をもたらしました。
宣雄は付け火とみて、大円寺一帯に聞き込みをさせると、願人坊主の真秀(長五郎)を捕らえました。
宣雄は長五郎が自白すると、真偽を確かめるために現場検証をします。
目黒行人坂の大火は江戸の三大火事ですが、火事の原因がはっきりして、しかも犯人が捕まった唯一の大火でした。
自ずから長谷川平蔵宣雄の評判が高くなりました。
宣雄は程なくして京都西町奉行に抜擢されました。
この京都赴任に嫡男の平蔵宣以も妻子を伴って従いました。
しかしわずか8ヶ月で病死してしまいます。
贄正寿
贄正寿の在任期間は5年7ヶ月に及びました。
この間に江戸・関東で取り締まった記録「御仕置帳」を遺しました。
そこから分かることは、天明期に火附盗賊改は無宿者の犯罪の対応に忙殺されていたことです。
しかも有効な手が打てず、「人足寄場」へ引き継がれていきます。
贄正寿は堺奉行に栄進し、堺の人々が留任を嘆願し、幕府はそれを認めました。
横田松房
贄正寿の後を継いだのが、横田松房でした。
横田は探索熱心で、怪しい者や無宿者を捕まえては取り調べました。
拷問では横田棒言われる責め具を考案しています。
堀帯刀
横田松房の後任が堀帯刀です。
堀帯刀は同僚の間で極貧で知られていました。家政を取り仕切っていた用人に巧みに横領されていたからです。
そのため堀帯刀の先手弓組一番組の士気はあがりませんでした。
松平左金吾定寅
堀帯刀に代わって火附盗賊改の本役に就いたのが長谷川平蔵宣以でしたが、助役となったのが松平左金吾定寅でした。
松平左金吾は松平定信と同族の久松松平氏で、それを鼻にかけていました。
左金吾は困窮して出勤もままならぬ同心がいることを知ると、金にものを言わせます。
しかしそうすると他の先手頭も与力・同心の扱いに困ることになりますが、そうした配慮が抜けていました。
四年に渡って三度の助役を務めるうちに評判と評価が落ち解任されます。
長谷川平蔵宣以(「鬼平」)
長谷川平蔵宣以が先手頭に就任して早々に将軍家治が急死し、田沼意次が失脚します。
これを継いだのは松平定信でした。寛政の改革が始まると、田沼派は追い出されました。
町奉行は力不足の柳生久通、初鹿野信興がなります。例外は佐渡奉行から勘定奉行になった根岸鎮衛と火附盗賊改に抜擢された長谷川平蔵宣以でした。
長谷川平蔵宣以は9年に渡って火附盗賊改の役にありました。
この間に捕らえて裁いた記録が「御仕置例類集」(古類集)に記録されています。
重要な判例を編纂したもので、2308件のうち、201件が収められています。
全体の1割近くを長谷川平蔵宣以の判例が占めました。
平蔵は捕り物上手だけでなく、裁判上手でもあったのです。
最初の大きな事件は上野国定村の百姓大助の一軒家でした。
町奉行でも火附盗賊改でも、任期中に1人でも大盗賊や大悪党を捕まえれば幸運と言えますが、長谷川平蔵宣以は何人も捕まえました。
最初の大盗賊は真刀徳次郎(神道徳次郎)です。
武蔵の大宮宿辺へ出張って一網打尽にしました。
真刀徳次郎の盗賊団の押し込み先は陸奥から関東5カ国に及びました。
移動する時は公儀御用かのように会符(絵符)と家紋入りの提灯を掲げました。
真刀徳次郎一味を一網打尽にした寛政元年四月に、平蔵は江戸で自ら播磨屋吉右衛門を捕らえます。
播磨屋吉右衛門は日光街道沿いの下谷に住む、北町奉行所から十手を預かる名の知れた目明でした。
寛政の改革で力不足の町奉行が続く中で、吉右衛門は町奉行所の自由にならないほどの勢力を持ってしまいました。
その吉右衛門の宅へ単身で出向き、捕まえたのです。
天明末期から寛政前期は江戸時代を通じて最も盗賊が跋扈した時でした。
松平定信は隠密を使って市中の情報を集め、「よしの冊子」に記録しました。
松平定信は反田沼から始まっていますので、田沼意次に親近していた長谷川平蔵に対して過度な敵意と中傷が書かれています。
松平定信は最後まで長谷川平蔵に嫌悪感を持ち続けましたが、いちど吹き込まれた偏見は、権力のトップにある者の修正する機会がありませんでした。
一方で記録としては公的な史料にない赤裸々な記録が多いのが特徴です。
それによると、長谷川平蔵は火事が発生すると要所に火盗改の高張提灯を立てさせました。
犯罪と混乱を未然に防ぐためです。
葵小僧(大松五郎)、早飛びの彦を捕らえたのも長谷川平蔵でした。
葵小僧は、葵紋の提灯を掲げて、狙いを定めた商家に押し込みました。
しかし当時の裁判記録には葵小僧の名がありません。記録が抹消されたのです。
火消し人足の早飛びの彦は150人ほどの手下を擁した頭領でした。
赤坂の火消し屋敷に居座り、手下に命令を出すだけで、現場には行きませんでした。
長谷川平蔵の功績として人足寄場の創設があります。
無宿者が深刻な社会問題になり、松平定信は対応策を焦眉の急として幕臣に提言を求め、長谷川平蔵が献策したのです。
人足寄場では無宿者に職を教え自立して社会復帰させることを目指しました。
しかし長谷川平蔵が人足寄場の兼務を解かれると、別の施設と化し、監獄化します。
森山源五郎孝盛
長谷川平蔵の後を継いだ森山は鬱屈した思いがあったのか、平蔵について書く時は平常心を失って過激に非難しました。
森山は根性が曲がった男で旗本屋敷のトラブルメーカーという書かれ方をされています。
一方で重要な仕事もしています。
後任のために火附盗賊改の職務内容をまとめたり、職務上必要な物品を整理、記録しました。
池田雅次郎
池田雅次郎は姫路藩主池田輝政の分家筋です。
4年7ヶ月の間、火盗改を務めました。
この間に池田雅次郎は199件の御仕置伺いを上げました。
犯人逮捕に目覚ましい活躍をしたことがわかります。
火盗改を退任すると、禁裏付に転役します。異例の転役でした。
無骨なだけの番方では務まらず、池田雅次郎が文武両道に熟達していたことがわかります。
八州廻り創設
江戸後期になると火盗改は江戸近郊・在方へ出張ることが増えました。
そこで関東取締出役(八州廻り)が新設されます。
八州廻りは勘定奉行のもと、火盗改ほど強力な警察権は与えられませんでした。
名奉行と名火盗改
三名奉行
- 大岡忠相
- 遠山景元(金四郎)
- 根岸鎮衛 or 筒井政憲 or 矢部定謙
三名火盗改
- 中山勘解由
- 長谷川平蔵
- 矢部彦五郎(定謙) or 太田運八郎資経(資統一)
矢部彦五郎(定謙)
矢部は腐り切っていた火盗改を一掃しました。
部屋頭三之助は表向き武家に奉公人を斡旋する人宿(口入や屋)を営む主人ですが、武家屋敷の中間部屋を博奕場の元締めでした。
住み着いていたのが、常に火附盗賊改の屋敷でした。
御頭はもちろん、用人、与力・同心に至るまで寺銭を贈り、付け届けは町奉行の内与力や廻り方の同心に渡されていました。
矢部が火盗改に付くまでの10年ほどは警察組織の一部は三之助の手に握られていました。
ところが三之助は矢部彦五郎には近付きませんでした。
矢部は一計を案じて三之助を呼び出して捕縛しました。
矢部は堺奉行に転役し、大坂西町奉行、勘定奉行、南町奉行になります。
戸田与左衛門
最後の火附盗賊改となったのは戸田与左衛門でした。
与左衛門は御家人から旗本に成り上がった人物でした。