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唐の御所の訪問記-歴史と見どころ紹介(栃木県那珂川町)平将門伝説[国の史跡]

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唐の御所

平将門伝説

那須塩原、西那須野方面から車で走って、神田城のところを左折し、道の駅ばとうを過ぎると左手に看板が見えてきます。

普通の民家の裏山にある国指定史跡です。

いや、ほんと、民家の中を進むので、これでいいのかと思ってしまう場所にあります。

唐の御所横穴|生涯学習|那珂川町
那珂川町(なかがわまち)公式ホームページ。くらしの情報・観光情報・生涯学習・農業行政など、那珂川町の情報を発信しています。
宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。
唐の御所への道

唐の御所(からのごしょ)。唐御所横穴ともいいます。

古墳時代末期、7世紀前後に築造された横穴式古墳です。周囲には20数基の横穴古墳があります。西側の北向田(きたむかだ)群と南側の和見群に分かれ、唐御所横穴は和見群のなかでも最も高所に位置します。

(古墳時代については「テーマ:古墳時代から大和王権の成立まで」にてまとめていますので、ご参照ください。)

伝説では、平将門の娘がこの地に逃れ、この横穴で出産しましたが、その時「唐土帝妃」と身分を偽ったところからこの名がついたと伝えられていわれます。

この後、もう少し進むと那珂川町馬頭広重美術館があります。おすすめの美術館です。

唐の御所説明板
説明板

「唐の御所」は今から1300年前頃の横穴墓です。その昔、下総の猿島を根城に平将門はその勢いにのって、常陸、下野、上野の国司を攻め落とし、天慶2年には関東の大半を征して、自ら新皇と称するまでになりました。しかし、将門は一族の貞盛や藤原秀郷に攻められて天慶3年遂に滅んでしまいました。その当時、三島城主であった小高出雲守将良は、一族をひきつれ和見に来て黄泉寺を建て出家いたしました。まもなく将門の女が将良を頼って髪をおろし、女蔵比丘尼といいました。尼は、既に子を宿していて、古墳の中で男の子を出産しました。このことを世にはばかって、唐土帝王の妃がざん言によって遠くこの地に流されて来たものといいふらしましたので、この横穴が「唐の御所」と呼ばれるようになったと言われます。

案内板から

平将門を討った藤原秀郷の地盤の下野に平将門ゆかりの地があるというには皮肉な感じですが、いわゆる土蜘蛛のような賊徒が根城にしていた場所かもしれないと思いました。

唐の御所案内図
案内板
唐の御所標識
唐の御所 標識

民家の間を通って裏の山へ進む道です。

唐の御所への道

本当に大丈夫かと思うようなところを進みます。

唐の御所への道

標識が現れます。

唐の御所への道

標識に従って進みます。

唐の御所

別の横穴を目指します。

唐の御所への道

近隣の古代遺跡・史跡

近隣には国指定の史跡や国宝が固まっているので、古来この地域が重要な地域だったことがよくわかります。

そして、おそらくこの周辺を古道の東山道が通っていたのだろうと思われます。

那珂川流域に固まっていることも、那珂川の水運を古来から利用していたことの証左でしょう。古代の戦略的な河川だったのかもしれません。

  1. 那須官衙遺跡(国指定史跡)
  2. 那須国造碑(国宝)
  3. 那須神田城跡(国指定史跡)

那珂川を下っていくと、河口の南側と北側に格式の高い名神大社が鎮座しています。

北にあるのが酒列磯前神社で、南側にあるのが大洗磯前神社です。祭神は酒列磯前神社がスクナヒコナで、大洗磯前神社がオオクニヌシです。国造りの神です。

逆に那珂川を上っていくと、那須岳へと向かうことになります。那須岳には式内社の那須温泉神社があります。この主祭神もオオクニヌシとスクナヒコナです。

川沿い(=国道294号沿い)を北上すれば、白河へ出ます。要所となる白河の関白河二所ノ関があります。白河の関へ向かう道は、源義経ゆかりの義経街道を通ることになります。

まさに、歴史街道です。

地図

〒324-0612
栃木県那須郡那珂川町和見岩下

承平天慶の乱を扱った小説

平将門の乱と藤原純友の反乱と合わせて「承平天慶の乱」と称されます。

平将門

海音寺潮五郎の「平将門」を読んだ感想とあらすじ(面白い!)

平将門の乱は、藤原純友の反乱と合わせて「承平天慶の乱」と称される。平将門の乱は、藤原純友の反乱の時期的に近く、伝説として平将門と藤原純友が比叡山で共同謀議して起こしたものだと言われてきている。真実は不明だが、本書は共同謀議説を採用していない。

海と風と虹と

海音寺潮五郎の「海と風と虹と」を読んだ感想とあらすじ
藤原純友の反乱は、平将門の乱と合わせて「承平天慶の乱」と称される。これに関しては、海音寺潮五郎はすでに「平将門」を記している。だから、本書は「平将門」の姉妹篇といって良いものである。ただし、「平将門」を記してから十年以上の月日が流れてから本書を書いているため、その間に生まれた新たな学説も取り入れ、一部設定を変えている。

絶海にあらず

北方謙三の「絶海にあらず」を読んだ感想とあらすじ
「絶海」とは極めて遠い海を指します。通常、距離的な遠さを指しますが、本書の題名は距離的なものではありません。それは、海が権力者のものとなり、一般大衆の手の届かないほどに遠いものという権力構造上の遠さを指しているような気がします。それが「あらず」なので...。