那須温泉神社の由緒・歴史
舒明2年(西暦630年)創立の古社です。下野国の式内社(論社)とされるので、由緒ある神社です。(論社となっているのは大田原市内の大宮温泉神社です。)
論社ですが、式内社だとすると、古来よりこの那須岳への道が拓けていたことになります。
麓からは車でも30分以上はかかるので、古の人はなぜこんな辺鄙な所に神社を建てようと思ったのかと、妙に感心してしまいます。
当時は人口も少なく、日本全国で1,000万人いるかいないかの時代だったと考えられていますので、尚更、不思議を感じざるを得ません。
そばに殺生石があるので、殺生石の存在を祟りと捉えて、それを鎮めるために建てられたのでしょうか。
殺生石の伝説と、当社の創立との時系列が合わないのは興味深いところです。
とはいっても、殺生石がそばにある事実には変わりがないので、なんらかの関係はあると思われます。
本殿の近くには九尾稲荷神社(摂社?末社?)があります。九尾の狐の伝説に関係しそうです。
それとも、活火山である那須岳に対する山岳信仰と、それを象徴する異形の石「殺生石」への畏敬の念が信仰へ発展したものでしょうか。
山を下ってだいぶ離れた大田原市内にもう一つの論社があります。
もう一つの論社は、火山噴火の際には影響を受けにくい場所を選んだのかもしれません。
そして、二社は役割を異にするだけで、古代においては一体のものだったのかもしれません。
境内に九尾の狐に関係する社があるので、もう一箇所の九尾の狐にゆかりのある玉藻稲荷神社への参拝もオススメです。
玉藻稲荷神社の紹介と写真の掲載。那須には九尾の狐にまつわる伝説がある。もっとも有名なのは、那須岳の殺生石。この神社はひっそりと、それと知られていない、隠れた「九尾の狐」伝説にまつわる神社。
本社から近い式内社は、福島県に入った白河神社になります。
祭神
祭神:大己貴命、少彦名命、誉田別命
祭神の大己貴命は大国主命の別名です。大国主命は国譲りで知られる神さまです。
古代に発見された温泉の多くは、大己貴命(大国主)と少彦名神が発見したと言われるため、温泉神社の祭神として祀られることが多いようです。
延喜式神名帳には温泉に関する式内社が10社あります。「温泉神社」が3社、「温泉石神社」「湯泉神社」「湯神社」「御湯神社」「玉作湯神社」が各1社です。
那須の温泉というのは、古来から知られた由緒ある温泉ということです。
発見
温泉は舒明2年(630)、狩野三郎行広が白鹿を追い続け那須湯本にたどりつき、矢傷を受けた鹿が温泉の湧き口に浸かっているのを発見したのが始まりといわれていわれます。
明治時代以前には那須のほか、板室、三斗小屋、大丸、北、弁天、高雄が発見され、那須七湯と呼んでいました。
明治時代に八幡温泉、大正時代に、旭、飯盛、郭公が発見され、大丸温泉の湧出湯を自然流下によって引用した新那須温泉を加えて那須十二湯と呼ばれていました。
現在では、やや離れた板室を除いて、那須十一湯とされています。
奈良時代
那須温泉が初めて文献に現れるのは、奈良時代の天平10年(738)に著された正倉院文書「駿河国正税帳」です。
小野朝臣が従者12人を伴って湯治のため那須温泉に向かうという記述があります。
すでに当時の都だった奈良まで那須温泉が知られていたのです。
平安時代
平家物語で那須与一が唱えた「那須湯前大明神」は当社ではないかと言われています。
また、那須与一が源平合戦の折、那須温泉神社に戦勝祈願をして扇の的を射て功を上げた話が残っています。
同じ話が大田原市内の那須神社にも残っています。いずれの神社も那須氏に縁が深いです。
鎌倉時代
鎌倉時代の建久4年(1193)に源頼朝が那須野の狩りの際に入湯したとされます。
また文永2年(1265)には日蓮上人が病気療養のため湯治に訪れています。
江戸時代
江戸時代に入ると、元禄2年(1689)に松尾芭蕉が、おくのほそ道の道中で入湯したと伝えられます。
那須温泉神社の見どころ
鳥居
鳥居の右奥に殺生石があります。右斜手前に温泉の鹿の湯があります。
鳥居のそばに足湯もあります。
参道のすぐ右にある社
鳥居をくぐってすぐ右にある社。
参道
那須温泉神社の参道
参道を歩いていくと
那須温泉神社の参道を歩いていくと
本殿
那須温泉神社の本殿
この本殿の右側に九尾稲荷神社があります。
地図
那珂川沿い
那須岳山麓を源としひたちなか市と東茨城郡大洗町の境界部で太平洋に注ぐ那珂川沿いは歴史街道でもあります。
東山道と那珂川が並走していたとみられる一帯には重要な史跡・遺跡が点在しています。
そして、那珂川を下っていくと、河口の南側と北側に格式の高い名神大社が鎮座しています。北にあるのが酒列磯前神社で、南側にあるのが大洗磯前神社です。祭神は酒列磯前神社がスクナヒコナで、大洗磯前神社がオオクニヌシです。国造りの神です。