外川淳の「直江兼続 戦国史上最強のナンバー2」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

2009年大河ドラマ「天地人」関連本。表題の通り直江兼続の事績を史料から様々な角度で紹介している。手頃で読みやすい内容となっているので、ドラマを見る際の参考になるだろう。

本書の最後に参考文献とブックガイドが載せられている。非常に参考になる。

この中でも研究書としての『花ヶ前盛明編「直江兼続の全て 新装版」新人物往来社』がとても参考になるようだ。後発の類書が、この本に深く依存している例があることもあり、まずはこれを読むべきなのかもしれない。興味のある人は是非に。

本書で中核をすえているのは三つある。

「兼続は、なぜ主君景勝から絶大な信頼を受け、上杉家のナンバー2になれたのか?」

「関ヶ原の戦いにさいし、兼続が策定した究極の作戦目的とは?」

「兼続が上杉家再建に成功した秘訣とは?」

本書では有名なエピソードから兼続を語り始めている。

1.文禄年間、大坂城で伊達政宗が珍しい金貨を持参して諸大名に自慢していたときのこと。

2.慶長二年、上杉家の侍がたいした罪でないのに、使用人を斬殺する事件が起き、親戚が訴えた時のこと。

だが、これらは後世に成立した「武辺咄聞書」という史料がもとであり、史実か否かは確認が出来ないという。

他に兼続に関連するエピソードの類は「大日本古文書」に網羅されているそうだ。歴史上の人物を研究する基本城を知ることが出来るそうだが、「大日本古文書」の編纂は遅々としており、織田信長などが公刊されていないようだ。

また、上杉家側にしてみると、兼続というのは徳川の時代においては厄介な存在としてタブー視されたようで、「奥羽永慶軍記」では悪意に満ちたエピソードが多いそうだ。

本書はこうした史料から兼続の姿を浮かび上がらせようとしている。ただ、史料が少ないのが難点なのは否めない。それでも、どの史料に依拠しているかを明記している点はとても評価できる。

兜の前立の「愛」については、諸説あるとし、兼続が崇拝する愛染明王から来ていると紹介している。

その上で、兼続が戦場を駆けていた頃は、民への愛を感じさせるような行政手腕を発揮した形跡がないと述べている。

さて、ここから兼続の人生を一望してみる。

幼少期は謎に包まれている。永禄三年(一五六〇)に樋口兼豊の長男として生まれた。幼名は与六。父・兼豊は坂戸城主・長尾政景に仕え、薪や柴の管理を職掌としていた。

伝承では樋口家は木曾義仲の家臣・樋口兼光を祖先とするという。これくらいのことしか分からず、この時期のエピソードはない。

この与六が上杉謙信の姉・仙桃院に見いだされて、子の景勝の側近に取り立てられることになった。年齢は定かでないが、十代前半だったと推測されるそうだ。

この後、景勝は謙信に引き取られ、与六も一緒に春日山城に移っている。この春日山城で謙信の薫陶を受けたかどうかは不明だそうだ。

謙信亡き後、後継者を巡る争いが起きる。御館の乱である。

この時兼続は十九歳。他の家臣とは違い、兼続は主君景勝に絶対の忠誠を誓っていた。だが、この時点では景勝の側近の一人に過ぎなかった。

総大将ともいうべき上杉三郎景虎が討ち取られても、御館の乱は終息しなかった。中越での頑強な抵抗があり、こうした勢力を攻め落とすことでようやく乱が終息する。

この御館の乱において兼続がどういう役割を果たしたのかというのもよくわからないようだ。信憑性の低い史料にすら、記述が皆無に等しいという。

だが、不思議なことに乱がほぼ終結しかけた天正八年(一五八〇)から景勝の側近としての兼続の姿が見えるようになるという。

この頃には兼続が上杉家の中で重責を担うようになったようである。

重用されて一年が過ぎた頃に、兼続が直江の名を継ぐことになる事件が春日山城で起きた。

重臣としての箔が付き、結束力の強い与板衆と呼ばれる直江の家臣団を配下に加えることが出来たのは兼続にとってプラスとなった。お船という伴侶を得たのも大きな要素だ。

織田信長との直接対決が迫ろうとしている中、新発田城の新発田重家が上杉家に叛旗を翻し、下越が争乱状態となる。この鎮圧に六年かかり、景勝・兼続主従を苦しめることになる。

徐々に追いつめられていく上杉家だが、本能寺の変によって一気に状況が変わることになる。

織田家が混乱状態にある中で、上杉家は信濃に出陣するなど着々と勢力を拡大する。

こうした中で新発田重家討伐も行われている。この新発田城攻めに兼続が従軍した記録がある。参戦の様子が記されるのはこれが始めてと思われる。

そしてこの時期には兼続は上杉家においてナンバー2の地位を確実にしていたようだ。

兼続の役割は後方にいて戦局全般の指揮をとることで、前々に行くことは珍しかったようだ。

この頃に上杉家と羽柴家の同盟がなる。この時点ではほぼ対等の基調だったようだが、羽柴秀吉が柴田勝家との戦いで勝ちを収めると、立場が逆転する。

落水城で秀吉・三成と景勝・兼続が会見したという「伝説」は秀吉サイドの史料や公式記録である「上杉家御年譜」には記録されていない。記録されているのは信憑性の低い史料だそうだ。

秀吉の時代に上杉家は越後から会津に転封となる。禄高は九十万石から百二十万石となり、佐渡の支配も許されている。

だが、このことは上杉家にとってプラスだったのか、マイナスだったのか…。

秀吉の死後、徳川家康がターゲットにしたのはまずは前田家だった。これを屈服させると、次に上杉家に狙いを定め、会津征伐となるのだ。

この時に有名となるのが「直江状」であるが、現物は存在しない。写しが数点伝わっているにとどまり、後世に創作された偽文書という説が根強いそうだ。特に江戸時代に書き加えられた部分があるというのは確実だそうだ。

この会津征伐が引き金となって関ヶ原に続くことになるのだが、この時に石田三成と直江兼続との間に密約があったという説がある。だが、これは多くの謎があり、史実かどうかの判断は出来ない。

問題はこの後であり、上杉家は徳川との直接対決を回避することになるが、それが何故なのか?である。

上杉家は徳川を追うことをせずに、上杉家の勢力を強化する方を優先している。

そのために、最上家を攻め、援軍の伊達家と戦うことになる。これらを封じた上で、関東南下作戦に移行するというのは、常套作戦である。
この時の戦いで有名なのが長谷堂城攻防戦である。

兼続はこの長谷堂城を攻め落とせなかったため、城攻めの基本を知らず、武将としての能力が低いという見方もあるようだ。

だが、撤退作戦では成功を収めている。撤退作戦は軍事行動の中で成功率が低く、指揮官の腕が問われるものである。この時の損害はわずかに一割であった。

この後、上杉家は米沢三十万石に押し込められることになる。

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本書について

直江兼続 戦国史上最強のナンバー2
外川淳
アスキー新書 約二一〇頁
解説書

目次

はじめに
序章 直江兼続とはこんな男
第一章 名将登場の時代背景
第二章 美しきライバル景虎との死闘
第三章 天下人秀吉との出会いと別れ
第四章 天下人家康との抗争と和解
直江兼続 関連史跡地図
直江兼続 年表
参考文献・ブックガイド
歴史を楽しむための提言

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