御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は、日本の東京都港区三田にある神社です。
海側斜面に位置しています。
三田はもともと御田と書いたようです。
江戸より以前は海辺なので、潮風に当たり、田畑には向いていなかったに違いありません。
田というのは、別の産業を指していたのかもしれません。
江戸時代には直ぐ正面に東海道が走っていました。今の国道15号です。
江戸湾が開けていましたが、明治40年代に芝浦の埋め立てが始まり、海が遠くなりました。
ビルのはざまに鎮座しているため、陽の光が入ってきません。
妙に鬱蒼として、陰気な雰囲気があります。
何というか、精気が吸い取られてしまった抜け殻のような感じです。
御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)の歴史
和銅二年(709)東国鎮護の神として牟佐志国牧岡に鎮祀され延喜式内稗田神社と伝えられます。
ただし、「延喜式内稗田神社」は、いくつか論社があります。
「牧岡」は昔の小山町。現在の三田一丁目10番、讃岐会館の辺りだそうです。
寛弘7年(1011年)、武蔵国御田郷久保三田に遷座し、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇されました。
寛永五年(1628)現在地に鎮座しました。
徳川家康の江戸城入城の際に奇瑞があったことから、荏原郡上高輪村海岸を開拓して社殿を造営し、寛文2年(1662年)8月に遷座が行われました。
しかし、寛文8年2月の大火により社殿は全焼、仮殿が伊皿子坂薬師寺に置かれました。
寛文12年8月に社殿が再建され再度遷座されました。
慶応元年(1865年)に神祇官により延喜式記載の「稗田神社」に改称します。
明治5年(1874年)に「三田八幡神社」に改称し、郷社に列しました。
明治30年(1897年)に「御田八幡神社」に復しました。
昭和20年の東京大空襲で寛文12年造営の社殿が焼失し、戦後の昭和29年に復興されています。
平成21年には鎮祀1300年記念として、8月1日に式年例祭が、2日には御神輿渡御が斎行されました。
誉田別尊命(ほんだわけのみこと、八幡神)を主祭神とし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)を配祀としています。
和銅2年(709)、牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。
http://mitahachiman.net/yuisyogaki.html
その後、寛弘8年(1011)武蔵野国御田郷久保三田(みたごうくぼみた)の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。
江戸開幕のみぎり、僧快尊が元和5年(1619)現社地を卜して造営を開始し、寛永五年(1628)8月に遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属する。
神仏分離により別当僧復職し神主職に就いた(石田弾正)。明治2年9月稗田神社と称号した。同7年1月に三田八幡神社と改称し、同30年4月三田の冠称を御田の旧名に復し御田八幡神社と称号するに至った。
昭和20年5月に、米軍による東京大空襲により、江戸時代のご社殿を焼失する。昭和29年に、本殿権現造、幣殿・拝殿・神楽殿・社務所を再建した。
平成21年は、神様をお祀り申し上げてより1300年の佳節を迎えた。
※神仏分離については安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」に詳しいです。
御田八幡神社の見どころ
社号標と鳥居
拝殿への階段
狛犬
手水舎
神楽殿
狛犬と授与所
本殿
摂社と末社
御田八幡神社の概要
項目 | 内容 | |
---|---|---|
創建 | 和銅2年(709年) | |
主祭神 | 誉田別尊命、天児屋根命、武内宿禰命 | |
社格等 | 古代社格制度 | 式内社(小) |
中世社格制度 | ― | |
近代社格制度 | 郷社 | |
現代の制度 | ー | |
その他 | 例祭:8月15日 | |
備考 | ― |
公式ページ
地図と住所
所在地: 〒108-0073 東京都港区三田3丁目7−番 16号
電話: 03-3451-4687