勝手なイメージで、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は平地にあるものだと思っていました。
イメージしていたのは足利氏の拠点だった鑁阿寺のような館です。市内のど真ん中にある館を想像していたわけです。
ですが、甲府駅から山に向かって坂道を登っていくので、おいおい方向は合っているのかと不安になってしまいました。
途中、山梨大学のキャンパスなどを通り過ぎていき、この先は何もなさそうな所にきて、いきなり武田神社(=躑躅ヶ崎館)が現れる印象です。
躑躅ヶ崎館の歴史
躑躅ヶ崎館は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館・城で、守護所が所在していました。
甲斐国の守護である甲斐源氏の武田氏の居館で、武田氏の領国経営における中心地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっています。
武田信虎は室町幕府の将軍足利義晴とも親しかったとされ、家臣や帰服した国人衆を居館周辺に住まわせ、京風の町並みを意識したとされます。
城下町は、館を中心に約220m間隔で5本の南北基幹街路が貫いています。
「武田氏館跡」として国の史跡に指定されています。現在、跡地には武田神社があります。
2006年(平成18年)4月6日、「武田氏館」として日本100名城(24番)に選定されました。
山梨県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡です。
武田信虎、武田晴信(信玄)、武田勝頼の3代60年余り甲府の中心だった城です。
甲府盆地の北端にあり、南流する相川扇状地上に位置しています。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置しています。湯村山城、後に甲府城が築かれた館南方の一条小山にも城砦を築きました。
小さな城ですが、戦国時代の中期から後期にかけては十分な大きさだったように思われます。
正面を攻めるには、延々とダラダラとした上り坂を登らざるを得ず、背面には急峻な山がそびえ、攻めることが難しいからです。
数千単位の軍勢であれば、問題なかったと思われますが、戦国期も終盤になり、万単位での軍勢に囲まれれば、数日で落城したに違いありません。
もともと甲斐守護武田氏の本拠は甲府盆地東部の石和(笛吹市、旧東八代郡石和町)にありましたが、第16代の武田信昌の時代に笛吹川沿岸の川田(甲府市)に居館を移します。
その後、信昌の孫の武田信虎の代に甲斐の有力国人を次々と制圧して甲斐統一を進め、1519年(永正16)に石和からこの地に新たな居館の築城を開始しました。
武田信虎像が甲府駅北口よっちゃばれ広場にあります。
2019年のこうふ開府500年を記念して、甲府の礎を築いた武田信虎公の業績を知ってもらうために、甲府商工会議所が企画・制作を行いました。右手に軍配を持ち、富士山を見ています。
甲府は甲斐府中の略です。
武田晴信 (信玄) は信濃、駿河、上野を侵略し版図を広げましたが、躑躅ヶ崎の城館は堀一重の狭く簡素なものでした。
信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇 (あだ) は敵なり」と詠み、大城郭を営まなかったといわれています。
信玄の時代の1543年(天文12)、城下からの出火で躑躅ヶ崎館は全焼しました。
武田信玄の像は甲府駅前にあります。川中島の戦いの陣中における姿を模した像です。
その後、1575年(天正3)の長篠の戦いの敗戦後、武田勝頼は領国の立て直しのため府中移転を計画します。
家臣団の反対を押し切って新府城(韮崎市)を築城し、1582年(天正10)に躑躅ヶ崎館から居城を移します。
勝頼は移転に反対する重臣たちを新城に移住させるため、館を徹底的に破壊したといわれています。
その後、武田氏は織田・徳川連合軍の甲斐侵攻により滅亡します。
武田氏滅亡後、織田信長麾下の武将の川尻秀隆が躑躅ヶ崎に入城しましたが、同年の本能寺の変で信長が死去したことで甲斐に一揆が起こり、その混乱の中で秀隆は戦死します。
その後、甲斐をめぐり徳川家康と北条氏直が争い(天正壬午の乱)、甲斐は徳川氏の領土となります。
徳川家康は当初、躑躅ヶ崎館に仮御殿を設けて拡張整備に着手し、天守台や曲輪(くるわ)を新設しました。
しかし、間もなく同館の城将として派遣した家臣の平岩親吉に新たな城の建設を命じ、1590年(天正18)に甲府城(同市)が完成すると、甲斐の本城は甲府城に移り、それに伴い躑躅ヶ崎館は破却されます。
躑躅ヶ崎館の見どころ
空堀など
外濠、内濠、空濠に囲まれた3重構造の平城で、周囲をめぐる堀を含め東西約200m、南北約190m、面積約1万3930坪(4万6000m2)の規模だったと推定されています。
東曲輪(くるわ)・中曲輪からなる主郭部は、武田氏の居所と政庁を兼ね、ほかに稲荷曲輪・御隠居曲輪・西曲輪などからなっています。甲斐武田氏の城郭の特徴がよく表れた西曲輪枡形虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配していました。
武田神社
1919年(大正8)に、城館跡に武田神社が建立され、現在、城跡は同神社の境内になっています。
武田信玄を祭神としています。旧社格は県社です。現在は別表神社です。
神社が建設された際に南の石垣を崩して正門を建設するなど、かつての三重構造の縄張りが大幅に改変されました。
現在、境内には土塁、堀、石垣、虎口などの遺構が残っています。
躑躅ヶ崎館を見物した後、甲府城跡の見物と甲斐善光寺の参拝に向かいました。
武田神社は武田信玄公を御祭神としてお祀り申し上げております。
信玄公はあらためて申すまでもなく、我が国戦国時代きっての名将であります。大永元年(1521年)当神社の背後に控える石水寺要害城に誕生され、天正元年4月12日に上洛の夢半ばに信州駒場で53歳の生涯を終えますが、21歳の時に国主となって以来30年余、諸戦に連戦連勝を重ねるのみならず、 領国の経営に心血を注ぐ中、特に治水工事、農業・商業の隆興に力を入れ、領民にも深く愛されました。
而して、現在でも県民こぞって「信玄さん、信玄さん」と呼びならわし敬慕の情を表し、郷土の英雄として誇りともする所以であります。大正4年、大正天皇のご即位に際し信玄公墓前に従三位追贈(じゅさんみついぞう)が奉告されたのを契機に、ご遺徳を慕う県民に武田神社ご創建の気運が沸き上がり、官民一体となった「武田神社奉建会」が設立され、浄財によって大正8年には社殿が竣工、4月12日のご命日には初の例祭が奉仕されました。
爾来、甲斐の国の総鎮護として祟敬を集め、平成11年にはご創建80年を迎え、祈祷殿「菱和殿(りょうわでん)」のご造営を始めとして各種記念事業が展開されています。
甲斐の国の守護神であるばかりではなく、やはり「勝運」のご利益が挙げられます。勝負事に限らず「人生そのものに勝つ」「自分自身に勝つ」というご利益を戴かれるとよいでしょう。
また、農業・商業・工業を振興されたことから産業・経済の神としても信仰を集め、民政の巧みさから政治家の方々からもまさに神として祟敬を集めております。武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に鎮座致しております。この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されました。
https://www.takedajinja.or.jp/1_jinja.html
館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、信玄公を始め一族の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折、県内各所より寄進を受けた数百種類の樹木が四季折々の風景を見せます。また、境内にある「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれております。