覚書/感想/コメント
シリーズ五作目。
前作でお佐和のために足を洗うと決めた直次郎。足を洗うには、掏摸が出来ないように、利き手の指を切るというのがこの世界の鉄則。
だが、直次郎が足を洗ったといっても、お佐和に近づけたくない伊三次は直次郎に嘘をつき、お佐和から遠ざけてしまう。
このシリーズの中で、直次郎ほどあくの強い、よく言えばキャラの立っている脇役はいない。とても印象に残る脇役なのだ。こうした脇役というのはなかなか生まれない。だからこそ、こうした脇役は後々まで登場させるものだと思っていた。
だが、この直次郎の登場は前作が最後の予定だったようだ。本書のあとがきでそう書いている。再登場したのは、読者からの強い要望があったためだという。それまでは、伊三次の前を通りすぎる一人の男として扱うつもりだった。
まさか、そんな意図があるとは思わず、直次郎が再び登場するのは当たり前と思っていたので、少々驚いている。
その直次郎が登場するのは、最後の「慈雨」。もしかしたら、これで直次郎は登場しなくなるのかもしれない。だとするととても残念だ。
本書でちょっと変った趣向なのは、題名ともなっている、「黒く塗れ」。ザ・ローリング・ストーンズの「ペイント・イット・ブラック」から採ったようだ。
ま、そんなことはどうでもいい。変っているのは、そこで呪(まじない)というものを登場させていること。これが絡んだ犯罪に伊三次がどう取り組むのか。
「蓮華往生」も変っているといえば、変っている。大蓮華の台座に座れば、大往生間違いなしという霊験あらたかな(?)お寺。
だが、大往生間違いなしということ自体がおかしいわけで、何かからくりがあるはず。そのからくりを暴くのが、伊三次…ではなく、緑川平八郎。
さて、本書では二つの慶事がある。いや三つか…。
一つは伊三次とお文の間に男の子が生まれる。名付け親は不破友之進で、伊与太と名付けられた。それまでの気ままな生活から、子を得ててんてこ舞いの夫婦。伊三次は…、どうも子煩悩になりそうだ。
もう一つも出産。不破友之進に娘が生まれる。茜と名付けられた。茜が生まれてから、男達はほったらかされている。
友之進は息子・龍之介と連れ立っての外出が多くなった。が、龍之介としては父と一緒にいる時間が長くなり、親子の会話が増え、これはこれで、いいのかもしれない。
もう一つは…、いや、これは言うまい。
内容/あらすじ/ネタバレ
蓮華往生
町奉行の永田備後守正道がふと目に留めた浅草・天啓寺の一件を調べさせた。金龍山・浅草寺からほど近いところにある天啓寺で、境内にある大蓮華で一人の年寄が往生を果たしてしまうと、それが評判となり、新たに大蓮華を建造した。
ただ、最近になって、昨日まで体の不調を訴えていなかったものが呆気なく大蓮華の台座で息絶えることが頻発していた。
そこで、奉行は隠密廻り同心の緑川平八郎にそれとなく探らせることにした。この寺には緑川の女房が熱心に通っていた。
調べは伊三次も同行していた。大蓮華にはからくりがある。だが、なかなかからくりが分からないのに業を煮やした緑川は自ら大蓮華の中に入る決意をする。
畏れ入谷の
正月。不破友之進は娘の茜が生まれて以来、家の中に居場所がなく、息子の龍之介を連れて外に出ることが多くなった。
不破は龍之介に来年から見習いとして奉行所に上がるつもりはないかと訊ねた。まだ元服まえだが、元服時には同じ年頃の者がいないための配慮だ。緑川の息子・直衛も上がることになっている。
そうした話をしている時に、二人は酔っぱらいを見た。ひどく酔っているようだ。だが、それはそこで忘れた。
酔っぱらいのことが再び話題に上った。馬喰町の郡代屋敷に使われている手代だという。その手代の座敷にお文が上がることになった。そして、そこでお文は手代の高木茂助から諸事情を聴くことになった…。
夢おぼろ
お文が妊娠し、伊三次は生まれてくる子のために余裕を持ちたいと考え、普段はしない富くじに手を出した。朝太郎という伊三次の親父の仲間から景気のいい話を聞かされたせいだ。
不破龍之介はいつものように道場で汗を流し、吟味方与力・片岡郁馬の娘・美雨に一緒に帰ろうといわれた。美雨は道場で少年達に稽古を付けてくれる先生だ。美雨には縁談が持ち上がっていた。だが、乗り気でないらしい。
伊三次はその美雨の縁談の相手・乾監物とたまたま会うことになった。二人とも富くじを買っており、そのあたりを確かめに来ていたのだ。
縁談は断られたものの、監物は当たれば、その金で普段はなにも付けない美雨のために簪を買ってあげたいという。
月に霞はどでごんす
お文の出産の予定日はとうに過ぎていた。喜久壽がお文を訪ね、蛭田流の医者を紹介してくれるという。
不破友之進らは桜川笑助という幇間を追いつめようとしていた。昨年、浅草で十歳くらいの履物屋の子供が殺された。履物屋の両親は人斬り請負の一味に
仕返しを頼んだ。敵は無惨に斬り殺された。この一味に笑助が噛んでいる可能性があった。それに、笑助はもと二本差しに思える。
黒く塗れ
生まれた子は伊与太と名付けられた。不破友之進が名付け親だ。
伊三次は得意先の箸屋の主・扇屋八兵衛から相談を受けた。女房のおつなに関することだ。どうも店の金を持ち出しているらしい。だが、問いつめても知らないという。伊三次はおつなのあとを付けることにした。
寺でおつなは医者と思われる男と会い、金を渡しているようだ。だが、様子がちょいとおかしい。不義密通というのではない。男は樋口長庵という。
評判を聞いてみると、樋口長庵という医者は呪(まじない)を掛けるのがうまかったようだ…。
慈雨
不破友之進のかかりつけの医者・松浦桂庵の母・美佐が三日前から行方不明になっているという。程なく見つかったが、助けてくれたのは棒手振りの男だという。花屋の時助という。
伊三次はその時助がなんとなく巾着切りだった直次郎ではないかと思った。果たしてそうだった。直次郎は未だにお佐和のことが思い切れないでいるらしい。そして、お佐和の方も直次郎のことを思い切れないでいた。
伊三次としては巾着切りだった男をお佐和の旦那にするわけにはいかなかった。だが、周囲の人間はそうは捉えていなかった…。
本書について
宇江佐真理
黒く塗れ
髪結い伊三次捕物余話5
文春文庫 約三四〇頁
江戸時代
目次
蓮華往生
畏れ入谷の
夢おぼろ
月に霞はどでごんす
黒く塗れ
慈雨
登場人物
伊三次
お文(文吉)…深川芸者
伊与太…息子
おこな…お文の女中
不破友之進…北町奉行定廻り同心
いなみ…不破の妻
不破龍之進龍之介…息子
直次郎…掏摸
蓮華往生
緑川平八郎
てや…緑川の女房
喜久壽
畏れ入谷の
高木茂助
おたき…茂助の女房
有本庄兵衛
夢おぼろ
朝太郎
片岡美雨
乾監物
月に霞はどでごんす
桜川笑助
一風堂・越前屋醒
冨田黄湖…医者
黒く塗れ
扇屋八兵衛…箸屋の主
おつな…八兵衛の女房
おとわ…椿屋の後家
樋口長庵…医者
藤波桂林…医者
慈雨
松浦美佐
直次郎(花屋の時助)
お佐和