小国の時代
紀元前後の日本は、「漢書」地理志によると、倭と呼ばれ、100余の国々に別れ、朝鮮半島北部に置かれた漢の楽浪郡に遣いを送っていました。
「後漢書」東夷伝には、57年に、倭の奴の国王が光武帝に遣いを送り、印綬を与えられたと記されています。
同書によると、107年にも、倭国王らが生口160人を皇帝に献じました。
2〜3世紀の弥生時代後期になると変化を見せます。
邪馬台国
3世紀初めに後漢が滅び、三国時代になります。朝鮮半島では韓族が強くなり、楽浪郡から独立しようとしました。
同じ頃「魏志」倭人伝によると、倭の国も乱れ、卑弥呼が連合国の王になり乱を収めます。
邪馬台国は30ヶ国ほどを勢力下に置く連合国でした。楽浪郡の南に設けられた帯方郡を経由して魏と通交していました。
239年に卑弥呼が魏に使いを送り、皇帝から親魏倭王の称号と印綬が与えられます。
邪馬台国の論争は日本の王権の成立時期を巡る論争です。現時点では決め手がないため、研究者はあまり論争に関与していません。
古墳文化
3世紀後半の邪馬台国の記事を最後に、ほぼ1世紀、倭に関する記録が中国の歴史書から消えます。
この3世紀後半には近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が作られはじめます。
古墳が盛んに築造された3世紀後半〜7世紀を古墳文化と呼びます。
4世紀頃の前期古墳は、前方後円墳の特徴があります。
新しい政治的支配者の出現を示しています。その中心はヤマト政権でした。
4世紀末から5世紀の中期古墳になると、数も多く、東北地方南部から九州地方南部に広がります。
代表的な古墳
- 誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)
- 大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)
4世紀初め、中国では三国時代が終わり晋の時代になります。朝鮮半島では北部の高句麗が楽浪郡を滅ぼします。
4世紀中頃、馬韓から百済、辰韓から新羅ができます。南部の伽耶(加羅)では小国分立の状態が続きます。
ヤマト政権は伽耶を足掛かりに4世紀後半から百済と通交し、新羅を抑え、高句麗とも戦います。
戦った記録が広開土王(好太王)碑に残されています。
- 2020年阪大:大阪府に所在する百舌鳥・古市古墳群の築造年代の中心は古墳時代中期ですが、この時代において倭国は東アジア諸国・地域といかなる関係にあったのかが問われました。
- 2014年阪大:古墳時代は大きく前期(3世紀後半~4世紀後半)、中期(4世紀末~5世紀)、後期(6世紀~7世紀)の3時期に区分できますが、前期から後期にいたる間に被葬者の性格にどのような変化が認められるか問われました。
- 2012年京大:縄文時代から古墳時代のはじまりまでの墓や墓地の変遷を、貧富の差、身分の区別の発生や社会の発展と関連づけて問われました。
- 1976年東大:5世紀初めごろに造られたと考えられている仁徳陵古墳のように、巨大な古墳が築造されるようになった理由が問われました。
大王
倭の五王
「宋書」倭国伝によると、5世紀には、讃、珍(弥)、済、興、武の倭の五王が宋に使いを送りました。
「武」がワカタケル大王こと雄略天皇と考えられています。
ヤマト政権の成立については埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘から、ワカタケル大王の名が判明し、 5世紀から6世紀にかけて、 関東から九州まで及ぶ政権があったことがほぼ判明しました。
ヤマト政権の王みずから軍事遠征を行い、大王の地位を築いたことがわかります。
古事記や日本書紀、中国の歴史書と発掘の成果が加わって、雄略天皇が実在の人物であるとともに、支配が北関東から九州に及んでいたことが分かったのです。
5世紀後半になると高句麗の勢力が伸び、朝鮮半島における倭の地位が低下します。
百済が高句麗・新羅に圧迫され、伽耶の諸国も新羅に統合され、562年に大和朝廷は「任那」の最後の拠点を失います。
- 2013年東大:5世紀後半のワカタケル大王の時代は、古代国家成立の過程でどのような意味を持っていたか。宋の皇帝に官職を求める国際的な立場と「治天下大王」という国内での称号の相違に留意しながら回答するよう求められました。
- 2009年阪大:「倭の五王」にかかわる考古資料や中国の歴史書をあげながら、その権力や支配の特質について問われました
- 1994年東大:倭国の王の中国皇帝に対する対し方はどのように変化しているか、また変化をもたらした歴史的な背景を、国内・国際両面について問われました。
大王と豪族
大和王権の国内統一が進むと、大王(おおおみ)のもとで朝廷を構成します。朝廷を構成する豪族は、氏上(うじのかみ)とひきいられる氏人(うじびと)が、氏の集団全体を支配し、地位を代々うけつぎ、身分をあらわす氏(うじ)・姓(かばね)を与えられました。
これを氏姓制度と言います。
朝廷の有力豪族
- 畿内の地名を氏の名とし、臣(おみ)の姓をもつ:葛城氏、平郡氏
- 朝廷での職務を氏の名とし、連(むらじ)の姓を持つ:大伴氏、物部氏
そのなかでも国政の中心となったのが、大臣、大連と呼ばれ、大臣・大連を頂点とし、多くの部(べ)を底辺とする支配体系が5世紀末から6世紀にかけて形成されました。
国造の反乱
5世紀後半から6世紀前半にかけて、吉備、筑紫、武蔵などで国造(くにのみやつこ)の反乱がおこりました。
筑紫国造磐井(いわい)の反乱は規模が大きく、新羅と結んで朝廷に反抗したと言われます。
磐井の反乱は、527年、継体天皇の時代に九州の「筑紫国造」磐井が起こしたとされる反乱です。最大かはともかくとして、古墳時代では最も有名でかつ重要な戦乱でした。
ヤマト王権による新羅出兵を磐井が妨害したことが発端とされます。乱は当時の朝鮮半島情勢と密接に結びついていたと考えられます。
当時の天皇は継体天皇でしたが、権力が不安定でした。また、継体朝では朝鮮半島での大きな外交案件が進行しました。高句麗に対抗するため、百済と新羅が南進を目論んでいたのです。
この当時、郡の行政単位がなく、国造も乱後に設けられた制度と考えられています。
なぜ磐井がヤマト王権に反乱したのかは不明ですが、九州で相対的に自立性の高かった豪族が、継体天皇の即位や、朝鮮半島情勢への対応に不満を抱き、ヤマト王権と対立する新羅の後押しがあったと考えられています。
ヤマト王権は磐井を鎮圧し、地方豪族の支配と、列島内での外交権の一元化を進展させました。
宗教と文化
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで 本ページ
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)